ありきたりの答えに辿り着く

結局ITかも

 サイゼリヤで小エビのサラダを頼んだら、サラダを片手に「コーンクリームスープでございます」と渡されて笑いが止まらない今日ですが、久しぶりに近況報告と日々の中で感じることをまとめようか思います。

 

フリーター生活もうすぐ半年

 紆余曲折あって大阪に転勤したものの退職し、フリーターももうすぐ半年です笑

やめてからは、会計事務所(もうやめた)、貿易(フォワーダー)の会社、寿司屋で皿洗い兼片付け、飲食チェーン店でホールと3つのバイトを掛け持ちして生活してます。

 

 会社辞めたしせっかくだから少しでも興味のあること片っ端から手を出してくか〜ってノリで、一番気になるのは寿司屋、それも高単価の寿司屋ってことでフリーター生活スタートしました。

 

気分転換に訪れた京都仙洞御所

実際に働いてみて

 まずは寿司屋からですが、海外で寿司屋やりたいなという思いで始めたのですが、やはり和食といえば旬の食材を扱い、素材を生かすってのが良さだろう!ってことで、そこをこだわり通せるのは高価格帯の寿司屋に違いない!と素人ながら思い、一人当たりの単価2万5000円〜3万円くらい?のとこで働いています。

 飲食経験はないので、アルバイトでなんでもやりますって感じで入って、皿洗いや片付けからスタートしました。

 とはいえ、職人の世界で厳しい。雑巾の洗い方をとっても僕にとっては非常に勉強になるし、ワイン・シャンパンの開け方から、どうやったら効率的な動き方であるかなど試行錯誤で大変さの中に楽しさがあります。

 

 次に飲食店のホールですが、寿司屋でバイトをしている中で、単純にホールもやってみたいなぁという欲を満たすためというのが一つ、もう一つが薄利多売の飲食店で働いてみたい、とりわけチェーンストア理論に基づいて経営をおこなっている会社で働き、中の仕組みがどうなっているかという理由でバイトをしています。

 色々感じることはありますがそこは話せないのですが、一つ単純に客単価1000円に満たないため、350人以上捌いても売り上げが30万円行くか行かないかってのは働く身としては辛いなぁ〜と感じます。あと、システマチックなところや基本理念についてはとっても面白い(この話はまた今度)。

 

 それから貿易(フォワーダー)の仕事ですが、僕はアルバイトなのでフォワーダー業務は行っていません。ちなみにフォワーダー業務とは、輸出入の手配を行う仕事で具体的には船をブッキングしたり、通関業者、運送業者の手配などをするお仕事です。こちらは前職で少しだけ関係していたので、そういった会社でバイトをしています。

 僕は何をしているかというと、経理業務の一部や貿易書類関係のペーパーワーク、データ入力と外部に開発をお願いしているシステムのチェックなどなど、まぁ雑用です。

 フォワーダー業務自体はあまりしたくないし、あまり向いてないだろうなと思うのでやってもいないのですが(その話もまたいつか)、フォワーダー業務周辺の仕事はやっていて色々発見があり楽しいです。

 

可能性を感じるのは何だかんだIT

 それぞれの職場で働いてて、ありきたりだが肌感覚で何だかんだITに可能性を感じます。大分IT化が進んだ今の世の中にも関わらずなのです。例えば、フォワーダーの会社では、エクセルで取引データや複数の種類の請求書に貿易関係の書類(ハウスB/Lなど)といったもののフォーマットに一つ一つ打ち込むのは面倒である。というわけでシステムを導入して取引データから発行したい色々な書類にデータがリンクしたり、会計ソフトにデータがリンクしたらいいよねってことを目論んでいるわけである。まぁ、よくある会社のシステムの導入ってやつです。

 ただしフォワーダーのシステムとなると、狭い業界であるため、あるにはあるものの満足のいくフォワーダー用のシステムがないようです。かといってシステム開発の会社(訳あって海外の会社)に頼んでもなかなか進まないという現状。

 これって、ニッチの業界だとまだまだITシステム開発の会社が入り込む余地があることだよなって捉えることができます。そして有用なシステムを開発すれば同じ業界の別会社に販売するととでビジネスとして成立する。

 他にも飲食だと、食べログぐるなびといった口コミ・予約サイトは何だかんだ多くの店が利用している。さらにはフードデリバリーのアプリを導入したり、そのアプリを最近は自社用に開発したりと、EC市場がアマゾン・楽天からBASE・Stores・Shopifyに流れたようなことが起き、まだまだ飲食業界にITが入り込んで行っています。

 

 会計ソフトをとっても、振替伝票を入力した時、貸方と借り方の合計金額しか表示されず、一つの取引を見たときにパッと粗利額(収益項目から費用項目を引いた額)がわからない。これは取引件数が多いと非常に欲しい表示なのにない。

 といったように、ITでこうしたらいいのにって思うことが多々あります。まぁ門外漢なのであれこれ言いたいことが言えるだけなのでしょうが笑

 

 結局、2023年になってもITに可能性を感じます。

 

 

 まだ20代だしってことで、もう少しふらふらフリーター生活をやろうかなぁ〜

とりあえず明日から13連勤、気合い入れて頑張ろう🔥

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

 

シューターのブログ

 

ポジティブは善か悪か

 

 「ポジティブシンキング〜♪」と喧伝している者を見ると、「一理ある」と思う面と「うるさいなぁ〜」と思う面がある笑

 「モチベを上げる」なんて言葉も同様だ。

 某芸人は「スーパー・ポジティブ・シンキング」などと仰っているそんなポジティブ思考は「捨てたもんじゃない」と私は考える。その一方で、ポジティブシンキングやモチベーションの向上の一本刀では通用しない部分が存在するとも考える。

 

ポジティブ思考過信の者を斬る男

 戦略思考の大家リチャード・P. ルメルトは著書『良い戦略、悪い戦略』でポジティブ思考を過信に対して批判をしている。

 「強く念じることや自分の内面を磨くことでパワーが出るものか、私は知らない。だが、精神から発する光が現実の世界を変えられるとか、成功すると思えば成功すると信じるのは一種の妄想であって、経営や戦略への取り組み姿勢として進められないことだけは確かだ。分析というものは起こりうる事態を考えるところからスタートするのであって、その中には好ましくない事態も当然含まれる。大空を飛ぶイメージだけを思い浮かべ失敗を考えたことのない人々の手で設計された飛行機には、私は乗りたくない。だが想念だけでビジョンは実現するという教えは多くの人を心酔させてきた。そのような教えを信じることは、批判的に考える能力を捨て、良い戦略をあきらめることにほかならないと私には思える。」と。

 

ニューソート運動

 リチャードが上記のように批判することには、歴史を辿った説明による理由づけがなされている。モチベーションやポジティブシンキングを味方につけようといった主張は、150年ほど形を変えて多くの人に伝わり支持されている。例えば、ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』やマルフォードの『引き寄せの法則』、さらに西田文朗の『No.1理論』なんかもその類であるだろう。

 こういった有名な本の元を辿ると、今から150年前のアメリカで始まったプロテスタント改革に行き着くと著者は述べる。プロテスタント改革では、個人と神との間にカトリック教会が介在する必要はないという主張が中心である。そして、各人にうちなる神性があるため、個人と神が直接対話することは可能であるという。

 こういった思想から、「病は気から」で病気は全て説明がつき、健全な思想と信念を持つことで病に打ち勝てるといったクリスチャン・サイエンスが生まれた。さらには、人間の信念は物理的世界に影響をおよぼす力があるという神秘思想へと変化する。

 こういった一連の流れをニューソート運動と呼ぶそうだ。だからリチャードは、「こんな変なもん(ポジティブシンキング)なんて信じるな」という。

 

ポジティブ思考の慎重な活用

 精神衛生上、毎日自身が失敗するイメージを抱き、自分を卑下するようなネガティブ思考は明らかに良くないだろう。そのため前向きに楽観的であることは肝要だと考える。実際にポジティブであることがネガティブであることよりも良いという結果は、あらゆるところで確認されているに違いない。そのため楽観的であること自体を責めるのは的外れだと思う。

 しかし、ポジティブ・シンキングをメインウェポンとし大志を抱き、勝負に出るのは無策に等しい。「ポジティブが戦略です」というのは愚の骨頂である。ポジティブがどこまで通用して、どこから通用しないかという線引きをどこですべきかはわからないが、戦略においてポジティブ思考を中心に据えることは間違っていると考える。そこで、『良い戦略、悪い戦略』では、良い戦略の基本構造を紹介している。この基本構造がきちっとあってこそ、戦略と呼べると著者は言う。私はその意見に同意である。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます

 

 

 

シューターのブログ

 

真理と力

 

 今年もわずかとなりました。早速ですが、2021年の読み納めはこの一冊、ハクスリー(1932)の『すばらしい新世界』。ディストピアの傑作と言われているそうです。90年近くも前に、科学の進歩が人間に与える影響の一つの可能性を示しており、驚くばかりです。

 

f:id:orangesing:20211231181537j:plain

 

生命のコントロール

 この物語で描かれている世界は、現代人の感覚からすればとても歪な世界となっています。人間は受精卵が孵化する前のところから人工的にコントロールされており、社会は生命を完全にコントロールすることにより、α階級からε階級までのヒエラルキーを作り出しています。そして、条件付けという刷り込み教育により、そのような階級社会を当たり前と思うばかりか、どの階級に所属する者も「自分の境遇が最も幸せである」と疑う余地がないよう仕向けられます。そうすることにより、社会の秩序が保たれるよう統治されているのです。

 ITとバイオテクノロジーが世界を変える未来、そう遠くはなかったりして...

 

幸福と不幸

 「すばらしい新世界」には苦痛というものが存在しません。辛いことがあったとしてもすぐさま「ソーマ」という薬を取り出し、半錠ほど飲めば快楽の旅へとしばし出ることができます。いわゆる現実逃避です。でも辛い感情と向き合うことはないから、不幸せではないのです。しかし、これこの世界に異議を唱えるものがおり、幸福は真実に立ち向かい、不幸があるこそだといった趣旨の主張をします。光があれば陰があるといったようなものが真理なのでしょうか。幸福とは何なのでしょうか。そんな問いを突きつけられているような気がしました。

 

真理と力

 「すばらしい新世界」では、多くのものが統制されています。例えば科学。科学は真理を追求するものでありますが、使い方を間違えると多大な被害を及ぼします。それは、私の出身地、ヒロシマの歴史のページを少し、過去にめくる分かることです。真理を追うと進歩もありますが、一歩間違えると破滅につながるということです。だから「真理」を追究する科学を慎重に扱い、大胆に統制しているというのが「すばらしい新世界」です。人々に真理を追わせない、真実を決して知られないようにする。そんな大きな力が働いています。

 これは現代も同じであるなと感じます。このコロナ禍もそう。それ以前もずっとそう。真理を口にしない、沈黙が力を持っています。真実には力があるけれど、それ以上に沈黙に力があるります。

 真理が気になる性の自分としては、納得いかないけれど、そういうもんなんですかね。

 2021年もお疲れ様でしたw

 

最後まで読んでいただきありがとうございます

シューターのブログ

意外と知らなかった自国のこと

 

 随分ブログの更新をサボっておりましたが、久しぶりにつらつらと書こうという気になりました。最近は一日中大学の課題に追われていることが多い毎日なのですが、結構充実感あって良しです。

 

 大学関係で最近は、紛争や安全保障について調べ物をしています。その一つに、沖縄の基地問題を調べる機会がありました。

 数年前に一時期調べている時期があったのですが、時間を空けて勉強し直すとまた違ったものが見えてきました。数年前は日本にある基地や弾薬庫がどこにあるかや、なぜ日本国内の特定の場所に存在するのかを地政学的視点で見ようと勉強した覚えがあります。

 最近調べているのは、「日米地位協定」についてです。「日米地位協定」に関して面白いと思った本に、『日米地位協定』 山本章子著 があるので、感想を文字起こししておきます。 

 

密約

 「日米地位協定」という言葉は今までよく聞いたことはあったものの、その度に聞き流してきたワード。意外と知らないって方多いんじゃないでしょうか。例外なく僕もその一人です。「日米地位協定」とは、在日米軍の基地の使用についてや、米軍関係者の権利などについて規定されたものです。

 この「日米地位協定」は不平等ゆえに、度々改正が議論されてきました。しかし、この「日米地位協定」、不平等であるにも関わらず、これすら守れていないのが現実です。なぜ、守られていないのでしょうか。それは端的にいうと、「密約」があったからです。

 

法ってなんぞや?

 その密約とは、日米地位協定の「合意議事録」です。非公表で結ばれたもので、日米地位協定の文言をどう解釈するかということが、取りまとめられています。日米地位協定の文言通りに、在日米軍基地が運用されているわけではなく、「合意議事録」に書かれた解釈に基づいて運用されているというのが事実だそうです。その内容のひどさについては、興味があれば本を読むなり、ウェブにあがっている資料を見てもらったらなと思います。

 それはともかく、法でルールが定められても、そのルールを破れるように他のルールを作ってしまうというのが、さも当たり前になされています。

 そんなのありかよ!

 法ってなんだろう。と、ただただ思いました。

 自分が今まででほとんど勉強してこなかった法。基本的な法律の考え方を勉強しなければなと思います。

 

派閥をつくらない

 日米地位協定や日米安全保障について読んでる中で気になったことに、派閥争いがあります。日本側だと、外務省と防衛庁(現防衛省)が、アメリカだと、国務省国防省が主導権を奪い合っていることが多かったです。そしてこの主導権争いが、判断ミスに直結していることが結構見られました。

 会社だけでなく、国政でも同じことが起きており、組織を運営するときは「派閥をつくらない」ように仕組むことが重要なんだと思いました。

 人が集まっていると、どこも同じようなことが起こるんですね...

 

f:id:orangesing:20211003232159j:plain

 

交渉

 また、本を読んでいて勉強になったことに、交渉についてが挙げられます。全く本の趣旨とは外れているのですが、政治の交渉について結構細かに書かれていて、「交渉ってこういうもんなのかな」と思う節がありました。アメリカが結構めちゃくちゃなこと言っていても、交渉としては成立する。相手の状況を見極めて、タイミングを見極められるかで日本側の運命が変わる。

 一般の人が見えない部分をどこまで見ることができるか、そしてタイミングを逃さないか。交渉ってなんか、疲れるな〜と思いつつも、面白いなとも思います。

これは勉強しなければ。

そして政治って大変。

 

沖縄の基地問題は、いろんな事情が関わっていて、本当に難しい問題だなぁと思います。ただ、日米地位協定の合意議事録は、『日米地位協定』の山本章子さんがいうように、撤廃すべきであり、一番現実性かつ効果のあることかなと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます

シューターのブログ

 

近代という時代の原爆

 

もう8月、広島に住んでいるとまたあの日が近づいてきたなを思います。そう8月6日、広島に原爆が落ちた日です。この1年間、歴史や哲学の本を読んできて、長いスパンで歴史を見るようになると、いろんな論点で歴史は繰り返すというか波があることに気がつきました。歴史は面白いです。そして、色々思うところがあるので広島の原爆について書いてみようかなと思います。

 

倫理や道徳を置き去りにしてきた近代

 

ときどき「常識を疑え」「当たり前を疑え」というような趣旨のことを耳にします。個人的には少しわかりづらいと思っていて、「その常識や当たり前はいつ頃からどういう背景で成立したの?」というのが、僕としてはわかりやすいなと思っています。

普段生活をしていると、色々な場面で「それ当たり前」と言ったり、言われたりします。ではその「当たり前」がいつできあがったのかを見ていくと、現在の当たり前の多くが「産業革命」や「フランス革命」の後、つまり近代以降にできあがっていると思います。

ではその近代で何が起こったか、「自然科学や技術が発達し、倫理や道徳が置き去りにされた」、一言でいうならばこうだと思います。

 

近代とはどういう時代だったか

中世以前、人間は小さな共同体で生活していました。「会う人の顔と名前が全部一致して覚えている」というような小さなコミュニティです。それが17世紀後半以降、国家が誕生しました。国家は共同体を解体して、個人レベルで人を管理するようになりました。そして、国民としてのアイデンティティを持たせるためにいろいろなことをしたのですが、その一つに「戦争」があります。「我が国はA国に勝利した!A国民万歳!!」っていう感じで、国民意識を植え付けました。

また、共同体が解体されて、ある意味「人のために」という意識より「自分のために」という意識が強くなっていきました。加えて資本主義が本格的になり、お金がお金を生む時代、資産を増やすことが重要であるという価値観に席巻される時代へと突入しました。

自然科学や技術が発展し、人は物質的に豊かな生活をするようになりました。頑張れば「自分が」報われるんだということに味をしめ、一生懸命稼ぎを増やすことに尽力するようになりました。

これは国家レベルでも同じでした。自分の国が豊かになるには、とナショナリズムに突き動かされ、大きな戦争が世界で繰り広げられるようになりました。自然科学や技術が発達し、兵器が強力になり、多くの死傷者が出る戦争へとエスカレートしました。

 

共同体が解体され、国家が生まれ、個人を生み出し、金が幅を利かせ、自然科学や技術が発達した。

 

近代にはいい面がたくさんあると思いますが、穿った見方をするとこういう言い方もできるのではないでしょうか。

 

時代を象徴した原爆

原爆は自然科学や技術が暴走した典型的な例です。近代にはいって自然科学や技術は急速に発達しましたが、それに伴うスピードで倫理や道徳は発達しませんでした。だからそれらは悪用され、原爆という兵器が作られ、使用されるに至ったのです。

そんな時代でしたが最近、倫理や道徳をベースにしたソフトパワー戦略がヨーロッパを中心に展開されています。環境問題やジェンダーの問題、人種問題など。地政学的な話はあるものの、これは結果的にいい流れなのではないかと思います。

自然科学や技術が発展して、次はやっと倫理や道徳が発展する時代へと変遷していくのかなという気がします。人文科学の時代到来かもしれないんですね。

より平和な世界になりますように。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます

 

参考文献

内山節 『内山節著作集(5)』 農山漁村文化協会 1986年

内山節 『新・幸福論』 新潮社 2013年

マルクス・ガブリエル/大野和基 『つながり過ぎた世界の先に』 PHP研究所 (2021年)

斎藤幸平 『人新世の「資本論」』 集英社 (2020年)

シューターのブログ

 

大人にならない・夢を持つ

 

 1日が終わり、目を瞑ると考え事をしてしまう、そんな日が時々ある。それは決まって、始まりと終わりとはなんだろう、すなわち生まれて死ぬとはなんだろう、ということである。

 死んだらどうなるんだろうと想像すると、たちまちとてつもない恐怖に襲われる。多分、掌に包まれた氷が溶けたらどうしようと不安に思っているうちに溶けてなくなっている。人生なんてそんなものなのかもしれない。

 死について考える、すると生について考えるようになる。でも死についても生についても、考えても答えなんて出ないし、むしろ恐怖感に疲れてしまった。だから、一旦死んでしまうということを、気持ちの上では納得できないけど受け止めておくことにした。

 

何も恐れずただ前を向く

 一日中外を駆け回り、ひぐらしが鳴くと家で夕飯を食べに家に戻る。家でゆっくりするともう寝る時間。明日は何をしようと床に就く。サッカーを一日中して、夜が来て、明日はどんな練習をしようと心を躍らせる。一日中本を読み漁り、明日は何を新しく知るのだろうかと、胸を高鳴らせる。そんな時は何も恐れていなかった。自分にいつか終わりがあるなんてことを考えても見なかった。

 死を考えるようになると、自分の終わりを考えたことのなかったあの頃は、なんかかっこいいなと思うようになった。もっというと、自分だけじゃなくて、ただ毎日をひたむきに生きてる人たち、動物・植物がかっこいいな、美しいなと最近は思う。

 何も恐れずただ前を向く

 

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり

信長が言ったように、一生というものは一瞬である。人が避けることのできない、突きつけられた事実である。

その事実を真正面から考えた時、常識とは何かと僕は思う。あたかも自分は世の中のことをわかっているという態度は、なんと悲しいことかと思うのである。「そういう人って痛いよね」と思うわけでは決してない。人の一生は短いのだから、自分の中で当たり前をたくさん持つこと、その当たり前に固執することが何か、悲しく感じるのだ。

知ったげにはならない。言い換えると、下手に大人にならない。かっこよく美しく生きるための秘訣なのではないかと最近思う。そして、夢を持つこと、何かを目指すこと。これが生きることなのかな、今できることなのかなと思う。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます

 

 

シューターのブログ

真・善・美の「美」

 

 この頃、デザインとか美とかいうものが大切であろうと感じてはいるものの、なぜかという言語化ができないため、自分の中でどうも納得いっていませんでした。デザインや美が大切な理由を求めること自体がナンセンスなのかと思っていた時期もあり、しばらく、疑問は心の片隅に居座ってました。大学生なってからは、美術館に行くようにしたり、映画を見たり、最近は生花を始めてみたり、服に気を使ってみたり。来月は、ひょんなことで電子ピアノが家に届くみたいだから、幼稚園・小学校と”イヤイヤやらせれた感”があり、全く身につかなかったピアノをもう一度やってみようかな、と思ったり。でもやっぱり自身の鈍い感性だと、どうも捉え所がないと思ってしまい、「うむ、わからん」といったところです。

f:id:orangesing:20210511150749j:plain

 

 

デザインとは?

 最近読書をしていて、デザインの本質について書いてある文章を見つけました。『世界観をつくる 「感性×知性」の仕事術』という本なのですが、デザインについて、

「デザインは、見た目をオシャレに取り繕うだけのもの」という誤解があるが、

”世界観を表す幅広いもの”

というようなことを言っています。

 

 例えば、着る服ひとつとっても、自分なりの世界観があって、その世界観を表現するツールとして服があり、ある服を着ることにより世界観を表現し、キャラクターを作り出す、と言ったことです。

 

となると、「自分なりの世界観を持つ」これがとても肝要になってくると言えるでしょう。

f:id:orangesing:20210511153623p:plain

 

ウォークマンの世界観

小学生の頃、周りの友達が持っていたのはiPodウォークマン。みんな持っているから欲しいと急いで買ったのが懐かしいです。僕が買ったのはウォークマン

確か当時は、ファンモンとか西野カナとかGReeeeNとかAKB48が全盛期だった頃。

CDを借りて、それをパソコンに取り込んで、ウォークマンに入れるみたいなことを一所懸命した覚えがあります。

f:id:orangesing:20210511154207p:plain

 

 

 そんな思い出のあるウォークマンですが、ソニーの創業者、盛田昭夫さんがウォークマンを売り出した頃、バイヤーに全くわかってもらえなくて、販売店に取り扱ってもらえなかったそうです。そこで代々木公園で、外国人のモデル100人を雇い、楽しそうに走らせ、歩かせた、と。

 移動しながら音楽を聴けるという未来を実演し、それが話題となった。世界観を示し、ウォークマンがもたらす意味が人に伝わり、ウォークマンはたちまち多くの人が手に持つようになった。

 そう、「世界観」「意味」があったからこそのウォークマンなのです。

 

真・善・美の「美」

大学1年生の頃から、マネジメントゲームという「経営シミュレーションゲーム」をしています。最初は、「金儲けのためのゲームなのか」という先入観があったものの、やるとその部分はあくまで表面で、そのバックボーンにあるものに本質があると最近感じています。その「マネジメントゲーム」の中で時々、「真・善・美」という言葉が出てきます。

「正しいことを、良いことを、美しく」

わかるようでいまいちわからない。そんなつかみどころのない抽象的な言葉だなと思っていました。

その言葉のうちの「美」なのですが、僕なりの今のところの答えは、自分なりの世界観を構築していき、その世界観を基準に「美しいか、美しくないか」を判断するのが、一つの「美」の捉え方なのかなと思います。

 

だから、どういう独自の世界観を自分で構築していくかがとても重要。そのためには、観るもの、着るもの、食べるものと、人生の中で色々なものにこだわって触れていくことが大事なのだと思います。

 

個人だろうと、組織だろうと、これからは世界観がとても重要。目先の利益だけを追うのではなく、世界観を示し、どれだけ人に意味があると思ってもらえるか、自分が意味があると思うか、がとても重要なのだと思います。

 

ちなみに、マネジメントゲーム「真・善・美」という言葉が大切にされているのは、開発者の西順一郎さんと盛田明夫さんに、(たしか)かなりの接点があったからなのかなと思います。ソニー時代の西さんが盛田さんを見て、”世界観”が大事だと学んだのかもしれない(完全に僕の勝手な憶測)。だから、美というものが大切にされているのではないかと思っています。

 

9月の東京MGが楽しみです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。