シューターのブログ

試験落ちた...

 

一つ、ショックなことがありました。それは酷暑が幾分か和らいできた夕暮れ時のことです。「ちゅんちゅん」と陽気に小躍りしていました。そう、一匹のスズメがセミを食べていました。

「そんなに大胆だったんですね...」

唖然して立ち尽くしてしまいました。いやー、よりによってセミなんて食べなくていいじゃん。なんでそんなことするかね(笑)。僕の頭の中では、スズメは可愛く、穀物を突っついてる存在なのに。だってもっとあるじゃん、精米所の前を陣取ってお米のおこぼれを狙うとか、いっそのこと直接田んぼを襲撃するとかさ(まだ稲に実はついてないか)。

でもこういう景色が目に入るのって、僕には珍しいなと思います。なぜ、目にこんな一場面が入るかって、試験に落ちてナーバスだからです。

 

いちおう弁明

その試験とは、プログラミングを一ヶ月で叩き込んでもらい、ザッカーバーグフェイスブックを開発する前のレベルまで一気に持って行こうというコンセプトの選抜試験の一工程、第一段階です。試験は全部で4段階あって、その第一段階で落ちました。試験は恵比寿で行われ、ビールが苦いだけに、思い出も苦いものとなってしまいました。内容は、プログラミングチックな日本語を使った問題や、SPI、潜在能力テストなど。事前に試験内容の予告はなく、参加者一同、ぶっつけで臨んだようです。初めてやったSPIや潜在能力テストは結構面白かったです。ただ、それをやりにわざわざ東京に出たのかよ。無理くり、今の自分にはとっても有意義だったと言い聞かせてます。(学んだことは次回のブログに回すことにします。)

 

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はい、恵比寿

翻って神谷美恵子

なんだかんだで、試験に落ちるとショックです。「別に人生に大ダメージってわけじゃないし」なんて言い訳してみたり、「試験落ちた、日本〇ね!」といってみたり、自分でも情けないです(笑)。気にしないようにしてもムシャクシャするので、ガラッと視点を変えてみます。改っていうと、この恵比寿話は、自分のスキルアップのために起こした行動の話でした。だが、ここからは、試験に落ちた言い訳、腹癒せの如く、スキルアップどうこう以前の話をしていきます。

広島に帰ってきてから一冊の本を読んでいます。その本は神谷美恵子の『生きがいについて』という本です。神谷美恵子とは、光田健輔を発端とする、ハンセン病患者の強制隔離政策に基づいてできた、岡山県瀬戸内市の島にある長島愛生園で精神科医として叩いていた方です。ついこの間、ハンセン病どうこうで、裁判の判決が出ていましたよね。ハンセン病患者に対しての国等の対応は国も謝罪をしましたし、よくないとは思いますが、一概に全てが悪だとも言えなく、この話はちょっと横に置いておきます。この神谷美恵子は、ハンセン病療養所:長島愛生園で、ハンセン病を宣告され、生きがいを失った人たち、失いかけた人たちを観察してきました。そして彼女の著者:『生きがいについて』で興味深いことが書いてありました。

 

全か無かの法則 

高校で生物選択をした人は聞き覚えがあるかもしれません。全か無かの法則(悉無律とも言います)、ある一定の値(閾値)以上の刺激が加わると筋肉が反応するが、閾値以上の刺激が加われば加わるほど、反応が大きくなるというわけではありません、反応刺激が大きくなったからといって大きくはなりませんという法則です。高校生物の神経の説明のところで出てきました。この全か無かの法則を用いて、「生きがい」が、『生きがいについて』の中で紐解かれていました。

例えば、自分の生きる意味とは、「仕事をするためのみにあるのだ!」「幸せな家族を築き上げることのみにあるのだ!」と言い切ってしまうとすごく苦しいですよ、ということです。いろんなことをちょいちょいやった方が幸せではあるかもしれないということです。ここで全か無かの法則を当てはめてください。

つまり、仕事をいくらやったとしても、いくら幸せな家族を築き上げようと努力しても、全か無かの法則に基づくと、幸せを感じる大きさ(反応の大きさ)は限られている訳です。

仕事で感じらるハッピー量は10ハッピーまで。家族で感じられるハッピー量は10ハッピーまでという風に。このように一つのことのために生きていると辛いのです。逆にいうと、いろんなことをやると幸せ。言い換えると、多趣味だとハッピーだと言えます。

仕事一筋だけだと感じらる幸せは10ハッピーだけど、例えば多趣味の場合、仕事で10ハッピー、家族で10ハッピー、趣味の料理で10ハッピー、友達と遊んで10ハッピー、ユーチューブを見て10ハッピーというようにたくさん幸せを感じられる訳です。

 

立志

全か無かの法則を踏まえると、一つのことに卓越することと幸せを感じることは必ずしも両立し得ないということがわかります。だから、有名人で尊敬の眼差しを浴びている人が急に自殺をしたりすることがよくあるのかもしれません。まあ、ともあれ、本を一冊読んでグラグラと価値観が揺らぐ僕はまだまだ、志を立てることができていないと感じます。何を大切にして生きていくのか、何にどの程度力を入れる生き方をするのか、どれほどバランスを取るのかとらないのか、探していきたいと思います。

 

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三年後の稽古をせよ

 熱暑で気が滅入りそうな近頃、テスト勉強、レポートに追われる日々です。レポートの内容が定まらずに読書、読書、一呼吸置いて、読書。今日はそんな読書で気がついたことについて書く所存です。

 

客観的ではない

私は、この数年で読書の虫になりつつあります。レポートに追われ、ネタを探す中で、先月は本を16冊読みました。飛ばし読みはしないタイプなので、自分にしては上出来であろうかと思っています。かくの如し、大学生になってから大量に読書をする中で、気がついたことがあります。それは本が客観的なものではない、ということです。「そんなの当たり前じゃないか!!」そんな揶揄が今にも聞こえてきそうです。しかしながら、本を習慣的に読むようになって最初の頃は、すぐに本に感化されてしまう傾向が自身にはありました。「この考え方面白いな、これが正解なのだ」と。ただ、これはとても浅い読書でであり、客観性を意識していない読書法です。もちろん、本を書く方の多くは、すこぶる客観性に注意を払っており、ある程度の客観性は本には担保されている面もあるともいます。ただ、いくら有名な著者であったとしても、客観ではなく、主観で書かれたものです。(主観で書かれているからこそ読書には面白みがあるのですが...)文字を綴っている人のことを想像することが大切。(読書の)量をこなす中でこのことに、あるとき膝を打ちました。

 

成長が目に見えない辛さ

読書をする上で辛いこと、それは成長を感じられるようになるまで、かなりのタイムラグがあるということです。本を読むと、頭の中は幾分か変わったと思えるのですが、自分の行動により結果が出るようになったなと思えるようになるには、結構な時間を要します。そして自身も、まだまだ読書による成長をなかなか感じていません。ただ、長いスパンで見たときに、大きく成長するだろうと見込んで、私は日々文字を追っているわけです。そして、僕がこの考え方をしていることを支えている言葉にがあります。それは、「三年後の稽古をせよ」という相撲界由来の言葉です。一見地味な練習がを継続することが、大成するためには必要。そして、その練習は三年という長い月日が経ったときに表れるという意味です。地味なことを継続してやるのは辛いものですが、スポーツにしろ、勉強にしろ、何にでも言えることだと思います。まだ完全には読書の有用性に合点がいっていませんが、「三年後の稽古をせよ」この言葉を胸に、読書を続けていこうと思います。

 

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20歳になりました

 

朝はクマゼミが鳴き、夕暮れはヒグラシが鳴く蒸し暑い梅雨がまだ続いています。そんな中先日、20歳を迎えました。小さい頃は大人になるなんてリアルに想像することができませんでしたが、気づけば成人です。時が過ぎるのって早い。

 

スタートライン

さて、20歳になったということで、抱負のようなものを掲げた方がいいのかな、なんて思ったりしています。「大人になってやりたいこと」とか「将来の夢」とかを考えるものの、ふわふわとしたものばかりでビシッと具体的なものが出てきません。具体的に描けば描くほど夢は叶うという法則を耳にちょくちょく挟む度に、これじゃあ駄目だなと思っているうちに大人になってしまったわけです。

 

自由という厳しさ

ついこの間、SNSを眺めていると、『何者』や『桐島、部活やめるってよ』などの作品で知られている朝井リョウさんの記事を見ました。その記事には「決められtレールガない心もとなさ」について書かれていました。(WEB Voice  社会・教育 2019年7月10日より)

【朝井】 私の世代は、相対評価よりも絶対評価が重視されてきました。平成では対立をなくす動きが進んだことで、自分の価値を確かめることがむしろ難しくなった気がします。外から何かを強制される苦しみとは確かに縁遠いですが、決められたレールガない自由から発生する心許なさには心当たりがあります。

自由が故に何をやればいいか、何に向かって突っ走ればいいかわからないし、突っ走れば突っ走るほど不安になることが僕もあります。

他にも自由の厳しさについて言及している人が多々います。少し前の時代の人物を一人取り上げてみます。哲学者サルトルです。サルトルの有名な言葉にこんな言葉があります。

 

人間は自由の刑に処されている

 

なんとも気味の悪いフレーズですね。さてさて、この言葉の意味はというと、ざっくりではありますが、自由に決断し行動することは、その決断や行動の責任が全部自分に跳ね返ってくるということです。

例えば、職業選択という自由があった場合で、ミュージシャンになろうとする。すると、ミュージシャンを目指すのは自由だけど、鳴かず飛ばずのミュージシャンのままで路頭に迷ってたとしても、責任は全部君自身にあるからね、となる訳です。そして誰も助けてくれはしない。

他にも例えば、暖かい家族を作って、幸せに暮らしたいと願って願っている。そこで結婚したのはいいけれども、夫婦関係は悪くて離婚。しかも子供がいるから一人手で育てるしかないとなったとしても、責任は全部君自身にあるからね、となる訳です。そして誰も助けてはくれない。だって自分で決断して行動したんでしょ、って。

このようなことがあらゆる決断・行動に言えます。当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが、これって意外と辛い。そして時々僕は思います。

人間は自由の刑に処されている と。

 

5000年前の本

自由は厳しい。それが故に自分の軸というのをドシッと持っていない。そんな僕に対して易経を読んでみたらいいよと勧めていただき、最近易経について少し勉強しています。とは言え、中国の5000年前の本で、なんとも胡散臭い。読んでも意味わかんないだろうしなと思いながら、易経界で権威のある安岡正篤さんの『易経講座』を読んでみました。読んだのはいいものの案の定、チンプンカンプン。何を言っているのかさっぱりわかりません(笑)。易経会では大先生的存在らしいのですが、ついつい「おじいちゃん、ちゃんとわかりやすく書いてくれよ」なんて言いたくなります。

そこで小学生でもわかる易経の本『易経陽の巻』『易経陰の巻』著者:竹村亜希子/都筑佳つ良 を紹介され、読んでみました。この本が極めてわかりやすく、中国古典の素晴らしさをまじまじと僕は感じました。書いてあることは単純かつ本質的なことです。例えば、「夢を持つとは?」とか「頑張るってどういうこと?」とか「褒められ続けるとどうなる?」とかとかです。

 

志を立てるのと夢を持つのは違う

易経には本質的なことがどうやら書かれているようなのですが、その中で「志」について書かれていることが印象に残ったので紹介します。

まず夢についてですが、夢はどこかふわふわとしたイメージがつきまとうことがあります。僕も小さい頃は野球選手になりたいとか、消防士になりたいとか、サッカー選手になりたいとか、ぼんやりと夢を描きました。でも僕は、野球選手にも、消防士にも、サッカー選手にもなっていないです。ではなぜなっていないのか(なれなかったのか)?

答えの一つとして、志を立てることができていないからです。

では志って何ってなりますよね。志っていうのは本によると、ちょっとやそっとのことではぐらつかない。しっかりとした決意や心持ちのようなものです。そして志は「持つ」と言わず、「立てる」と言います。これは地面に杭を強く打ち付けられたように強固なものであるという意味が込められており、「志を立てる」というそうです。この志を立てることがまず、夢を現実にするための第一ステップです。

この志を立てるということを僕を含めた若い世代ができていない傾向にあるようです。それは今の世の中が自由であるが故に。だから、まず初めの初めに、とっても大変だがとっても重要なこと、志を立てるところからしなければと思います。20歳から僕の本当のスタートです!

 

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伝言ゲームのプール

今年ももう折り返し地点を過ぎました。ホントあっという間で、更なる駆け足で半年を過ごさねばと感じています。そんな今年の折り返し地点で感じたことが伝えることの難しさです。

 

伝言ゲーム

世の中には”伝える”ための心理学、脳科学トーク術・話術の本と実にたくさんの本が書店に積まれています。あまり”伝える”ことの重要さを考えたことのなかった僕は書店に行っても、「こういった類の本は過剰に出版されてるんじゃないの?」と思う程でした。ただこの過剰に思えるほどの量の出版に納得がいくようになりました。それは世の中が難解な伝言ゲームに満ちているからです。

 

お菓子・映画も伝えられない

伝言ゲームの世界とはどういうことか? 例えば、一押しのお菓子を友達に紹介する時、「チョコレートのこのお菓子、こうこうこういう味で、とっても美味しいんだよ!ぜひ食べてみて!」と紹介するとします。でも味なんか伝わらないですよね。それどころか、「急にお菓子の話されても困るんだけど(笑)」とか、「チョコレートがそもそも嫌いなんでけど(笑)」となるかもしれません。映画を紹介するときにも言えます。「この映画とっても感動的で、涙腺崩壊。絶対に見て欲しい一押しの映画なんだよ!」と。でも、「急に映画の話やめてくれる、今そんな気分じゃないから」とか「アクション系の映画しか見ないんだよ」となるかもしれません。そう、こんな些細なことも人間は伝えることができなくて、友達にお菓子を食べてもらうことも(お菓子くらいならあげればいいですが(笑))、映画を見てもらうこともできません。全く人にお菓子の良さ、映画が伝わらないです。これらが世の中に難解な伝言ゲームが満ち溢れているといえる理由です。まさに、伝言ゲームのプールです。(僕が勝手に言っていますが...)

 

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マネジメントゲームの様子

グレープフルーツ

ついこの間の土日、マネジメントゲーム(MG)に参加してきました。そこにはいつものように様々な人種(タイプ)の人たちがいました。分け方が適当ではありますが、理系チックな人から文系チックな人、体育会系な人と本当に様々です。MGではそんな色んな人種の人たちと時々、グレープフルーツを伝え合います。二人組になって、一人がグレープフルーツという存在を知らない体で話を聞き、もう一人がグレープフルーツについて説明します。参加者各々は、「グレープフルーツは甘くて、けど酸っぱさも苦さも兼ねていて、形は丸くて、〜.....」と説明します。でも聞いている側はグレープフルーツという果実を知らないわけなので、なかなか伝わりません。そんな伝わらないというモヤモヤ感を参加者一同抱えたまま、レクチャーが始まります。まず、相手がそもそもグレープフルーツの話を聞きたくないかもしれないので、「今大丈夫?」とか「時間ある?」ってところから相手に聞くのがベターです。それからいきなりグレープフルーツの説明をされても、グレープフルーツを聞く側は全く知らないので意味がわかりません。だから「オレンジって知ってる?レモンって知ってる?」と聞き、相手の知っていることと結びつけて説明するとなお良しです。つまり相手の頭の中を想像することが必要です。ただ、それでもグレープフルーツの話を聞きたくないのが人の性です。だから相手と話している中で情報を収集し、相手の興味を探ってそれと結びつけることが大切です。例えば話している中で、相手は果物好きで特に柑橘類が好きなようだとわかったします。その上で「柑橘類が好きなあなたにオススメの果物を紹介したいんだけど」というと、いきなりグレープフルーツの話をするときと比べて、伝わりやすくなります。

 

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惜しくも2位でした

分かっていても出来ない

今までの経験してきた環境(例えば、大家族で一番年上で人に物事を伝えることが多かったなど)により、これらのことが自然とできている人も中にはいます。でもできない人が多いのも事実で、僕もできない一人です。そしてこういった理論を知っても、なかなか実際にやるとなると難しいです。僕が人に分かって欲しいのはMGを学ぶことの有益さであり、同じ学生にも体験してもらいたいです。今まで色々いってきましたが、やはり伝え方が悪かったなと思っています。MGは経営ゲームなのですが、実に別に経営者の人だけに役立つのではなく、むしろそれ以外の人の将来にも役立ちます。MGについて例えば、就職希望の人であれば、かなり就職に役立ちます。なぜならMGを学んでいると経営者の視点が身についてくるからです。「で、経営者に視点が分かった人材がどれだけ重宝されることか。(笑)」他にも、進路選択・職業選択に悩んでいるのであれば、MGがオススメです。なぜなら、広島で活躍されている社長さんと一緒に勉強ができ、話す機会が多いにあるからです。毎回MGでは入れ替わり立ち替わりいろんな分野の経営者の方が来られます。食品・水産・建設・スポーツ・アミューズメント・工業などなど、実に様々でそれらのことをいくらでも直に聞くことができます。さらには経営者の方々がどういうことを考えていて、どういう人材を求めているかも、一緒にいると分かってきます。だからインターンシップ以上にコスパがいいです。(他にもたくさんメリットはあるのですが、これくらいにしときます)。とはいえ、今まで、僕の伝え方が悪かったのが事実ですし、今もトライしては失敗の連続です。毎月MGはやっているので、一緒に参加する人数が少しずつ増えれうよう、上手にMGの良さを伝えていけたらなと思います。

 

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象の檻

 

 1年以上車に乗っていないペーパーで、今日久しぶりに運転しました。

「エンジンかかった」

AT車エンストしない」

「クリープで勝手に進む!」

一つ一つにいちいち反応してしまう始末でした(笑)。とりあえず家の近くのスーパーまで無事について、帰って来れたのでひとまず良しです。ちょいちょい練習しないとまた忘れるな(笑)

 

やっぱ抽象的な芸術わかんね!

 そんなことはさておき、昨日は広島市現代美術館山口啓介さんの『後ろ向きに前に歩く』を見てきました。まず気になったのが題名。「後ろ向きに」というのは人間、過去と現在しか見えなくて、未来は見えない、という意味で、「前に」は、それでも人間未来に向かって歩くしかないという意味らしいです。

「うーん深い!」

ところで肝心の作品を見た感想はというと、抽象的な絵が多くて芸術素人にはだいぶちんぷんかんぷんでした。ただ、一つ「震災ノート」という東日本大震災が起きてから毎日欠かさず書かれたノートがあり、そこには具体的な知識体系等が抽象画に落とし込まれているということがわかりました。そして、毎日8年間欠かさずノートを書き続ける継続力には脱帽です。見習わなければ!! また、それともう一つ気になった作品として、『象の檻』を取り上げた作品がありました。

 

監視される日本

象の檻』と言ってもZOOにあるやつのことではありません。アメリカの通信傍受装置のことです。アナログ通信に重宝されていたらしく今は過去のものとなっていますが、日本をはじめとする各国の情報がアメリカによって傍受されていました。(今はプリズムという監視プログラムでデジタル情報までもを傍受しているようです。)この施設は2007年ごろまでに沖縄の楚辺通信所に、2014年ごろまでに青森の三沢基地の姉沼通信所にありました。『シチズンフォース スノーデンの暴露』を見ていないので詳しいことはわかりませんが、一分間に数百万もの通信を傍受できる当時最強の盗聴装置だったそうです。気がつかないだけで、最近米軍施設が身近には多いなと最近感じます。

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ja.wikipedia.org より引用 『象の檻

 

 

広島には弾薬がたくさんあるけーね

今日は6月23日ということで沖縄では慰霊祭が行われています。そして、その沖縄に今春行ってきて、米軍施設を遠巻きに見てきました。普天間基地、嘉手納基地、嘉手納弾薬庫と。戦闘機がバンバン飛んで、かつすぐに爆弾・爆薬を飛行機に積み込めるという環境に知識としては知っていたものの唖然としました。

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嘉手納弾薬庫

一見ただの森に見えると思いますが、この森の地下に広大な米軍の弾薬庫が広がっているとのことです。本当に見た目わかんないですよね。そして、沖縄やべーなと嘆いたいたのですが、この施設広島にもあるんです...。しかも本土全国に爆薬を運ぶ拠点となっている弾薬庫が3つ。

 

 

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弾薬供給拠点 in広島

 

決して無視できない動き

広島には3つ、東広島の川上弾薬庫、江田島市の秋月弾薬庫、呉市の広弾薬庫です。の弾薬庫があります。本土の中でも最大級の弾薬庫です。ベトナム戦争湾岸戦争の時には多くの爆弾がここから積み込まれ、現地にその爆弾が落とされていました。そして今もなお使われている施設です。不確かな情報ではありますが、太平洋戦争時に日本が受けた爆弾の5割、6割、いや7割ほどが収容できるのではないかと噂されてるほどの広大な施設です。実際に情報公開されていた頃には横須賀の方に弾薬が広島から運び込まれたという記録もあります。(今はテロ対策という建前で、広島の地方自治体には爆弾・弾薬や武器等を運ぶ際、日時しか伝えられていませんが...。)

さらに今岩国基地が拡張されています。岩国基地には厚木基地に所属する原子力空母ロナルド・レーガンに搭載されるステルス戦闘機F35やちょくちょく話題になるオスプレイが置かれています。普天間から辺野古への移設が進んでないことも関係するのか、過去には海兵隊岩国基地に移動してきています。そして、現在、さらに米軍関係者が岩国住めるように愛宕山に住宅地が形成されています。この動きから判断するのは全く妥当ではないですが、広島・山口が今まで以上に米軍にとって重要な拠点になっているかもしれません。

 

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お別れ

 

先日、祖母の散骨に行ってきました。散骨の場に初めて立ち会ったのですが、私の中ではお墓があるのが普通という感覚だったので、少し不思議な感じがしました。「お墓がないから、海に拝めばいいのかな?」なんて疑問もあります(苦笑)。散骨自体は、意外とスピーディーに進んでいきました。陸からだいぶ離れた沖に出て、そこで散骨を行います。お骨は粉末状になっており、白くて水に溶ける紙の小さな袋に入れられていました。そして最後にその袋にお別れのメッセージを書いて、海へそっと落とします。すると、袋が途中で溶けて、粉末が海水の中に広がっていきました。船上でのお別れは初めてのことで何とも言えない気持ちになりました。

 

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ストーリー

散骨が終わってからは、祖母にまつわる写真や動画を見ました。僕が知っている数年前の祖母の写真から、30年、40年前の写真まで見ました。その中には、僕が5歳くらいの頃、祖母と遊んでいる動画もありました。全く記憶になかったのですが、めちゃめちゃはしゃいでいる自分が撮られていて、「こんな頃があったのか!」と驚きました(笑)。それと同時に思い浮かんだのが、

「時間って進んで行くんだなぁ」

ってことです。当たり前のではありますが、やはり何か悲しく、受け入れたくない事実です。それからさらに5年前、10年前、30年前、40年前の写真を見ていくと、僕の全く知らない祖母が写っていました。30代の祖母の写真を見ながら話す親戚。その話を横で聞きながら、祖母がどんな人か全然知らなかったなと、今更気がつきました。

 

漠然とした疑問

色々祖母にまつわる話を聞いている中で、結局は最後に話になるのは「幸せだったのかな?」ということです。こればっかしは知る由もないのですが、つい僕も考えてしまいました。さらに、とても漠然としすぎた疑問なんだけど、「人生って何だろう?」とか「幸せって何だろう?」とか...、も浮かんできました。そして、自身について考えたときに、納得した形で、選ぶことと捨てること、つまり取捨選択をしていかないと、公開の人生になってしまうと思いました。よく葛藤して、うまく選びきれない、うまく捨てきれないことがあるけれど、そこのところを上手にならないとなと思いました。

 

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相手が悪かった?!〜立ちはだかるソクラテス

 

この頃、ディスカッションをする中で、正論を言うことはある程度情報があれば簡単なことであるが、正論を言えば良いってもんじゃないなと感じることがあります。ディスカッションの中では、正論と正論がぶつかり合うことがよくあり、どちらを完全に否定することもできなければ、どちらを完全に取ることもできません。だから、結局のところ「バランスや割合といった問題かな」なんて思ったりします。もしくは、そもそも正解なんてないし、「人それぞれなんじゃない?」と思うようになってきました。

 

巡り巡り、辿り着いたのは哲学?!

大学に入ってから興味本位で100冊以上の本を読んできました。ディスカッションがあれば、それに関すること本を読んだし、授業で気になることがあったら、授業で扱った分野の本を読みました。研修や旅に出れば、研修に関する本、旅先に関する本を読み漁りました。そして、最近は、3月に沖縄に行ってからと言うものの、戦争関連の本を読んで、文化について知らないと深くはわからないなと思い、文化に関する本を読み、文化を理解するためには思想がわからないといけないなと東洋思想の本を読み、東洋思想の本を読んでいると、宗教について知らないといけないなと宗教の本を読み、宗教に関連して天皇のことも調べておこうと天皇関係の本を読み、宗教・東洋思想・天皇の本を読んでいると、何かしら西洋哲学に絡んできて、西洋哲学を勉強しなければとなっています。

 

西洋哲学を勉強し始める

そこで、西洋哲学の本を読み始めたのですが、如何せんとっつくにくい。そこで、人気のブロガー「飲茶」が出版している本『史上最強の哲学入門』(河出文庫)を読み進め勉強することにしました。そして、西洋哲学の一番最初となると、古代ギリシャの話になります。そこで僕はいきなり頭をハンマーで殴られてようなことを本で読みました。

 

プロタゴラス

そのこととは今から2400年前のギリシャに遡ります。当時のギリシャの頃にすでに人間は真理(正しい道理)を求めていました。「〇〇が正しいのか?」いや「△△が正しいのか?」と。で結局のところ、当時のギリシャの哲学者はこう結論付けました。

「絶対的な真理なんてそんなものはない!価値観なんて、人それぞれさ!」(『史上最強の哲学入門』による)

「結局それかよ(笑)!」と思うと同時に「いやーわかるわぁ!」と共感しました。結局、「今も昔も人は考えることは同じなんだなっ」とプロタゴラスに勝手に親近感さえ持ってしまいました。やっぱり僕の「人それぞれじゃない?」って考え方は間違っていなかったんだ!」と少しばかりと自信も持ちました。そして、この考え方を「相対主義」と言うのですが、この相対主義ではある問題が生じてきました。

 

相対主義の弱点

「人それぞれ違うから、正解なんてないよー」って言っていると、人は「真理なんて求めなくていいよねー、とりま適当でいいじゃん!」と堕落していきました。すると当時民主主義であったギリシャはダメになっていきます。さらに、政治家は具体的なことを言うと「相対主義」を駆使して、「その考え方は他の視点から見たらおかしいんじゃないの?」と、いとも簡単に他の政治家に反論されるようになりました。そうなると政治家は、具体的なことを言わず、当たり障りのないこと、うわべだけのことを言うようになります。そして、さらに世の中は良くない方向へと進みます。そこで政治家に立ち向かったのがそう、ソクラテスです。

 

僕に立ちはだかるソクラテス

このままではダメだと立ち上がったソクラテス。政治家に立ち向かいます。そこでソクラテスは政治家に質問をしまくり、政治家が無知なことを民衆に知らしめ、恥をかかせます。

「この政治家どもは何もわかっていない」と。(こんなことをやっていたのでソクラテスは処刑されるのですが、苦笑)

ではなぜソクラテスはこのようなことをやったのか?めちゃくちゃ生意気なやつだったのか?

それは、ソクラテスが政治の腐敗や国民の堕落を見てきた中で、「相対主義」(人それぞれ違うよねー)をやめて、「真理を追求してほしい」と言う思いが強くあったからです。そして、その第一歩として、自分は何も知らないことを知ることが大切だ、「無知の知」を政治家たち、はたまた民衆に唱えていったわけです。

そうここで、僕の「人それぞれだよねー、だから答えなんかないよね」と言う態度が否定されました。ここで僕は「意見を持つことの大切さ」を知りました。そして「もっと勉強しなければな」と思いました。(それにしても相手が悪すぎた...めちゃ偉人じゃん(笑))

 

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