シューターのブログ

正論VS正論

 

 

今日は最近感じるとても偏っているかも知れない、バリバリの個人的意見を書こうと思います。話は題名の通り正論VS正論の話です。最近色々な人が様々な議論をしているのを見たり、自分が参加したりするのですが、やっぱり世の中、賛成反対、白黒を完全に付けれるようなものは少ないと感じます。だから、正論VS正論という構図が生まれてしまいます。しかし、この正論VS正論。僕は優劣をつける一つの基準があるのではと思っています。

 

全体のため意見か

結論から申しますと優劣をつける基準はどれだけ広く物事を見て全体のための意見を言っているかです。これだけを聞いてもピンとこないかも知れないので具体例を出しますと、今の日本は明らかに他の先進国と比べて教育の制度、組織が遅れているから変えるべきだと教師が立ち上がるとします。それは世界という大きな視点から日本を見て、このままでは日本が世界から取り残されると見越して、教育を変えるべきだと言っているわけです。しかし、そういう時、大抵の上のものはこう言います。「まずは目の前の生徒と向き合うべきだ」「今ある目の前の仕事をきちんとやってから言え」と。これはとても正論でなかなか逆らうことが普通はできないじゃないですか!でもここで疑うべきべきは、そういうことを言う奴が大きな視点で教育を見て、全体のために意見を言っているのかと言うことです。人は変わるのを拒みがちで、大きく変わろうとする者を潰そうとします。しかも強烈な正論で。そして、そういう奴の言う意見が採用されて、気づいたら大きな問題が目の前にあり、既に手遅れで、全体が潰れちゃう。しかも、小さな視点で意見したやつは責任を負わないという始末です。これは教育だけでなく、会社の組織構造を変えようとする者VS拒む者やスポーツのチーム作りの手法を変えようとする者VS拒む者などの構図でも言えることです。

 

「はい、論破」は最低!

 ちょっと前のことですが(いや、だいぶ前?笑)、「はい、論破」というフレーズが世間で流行しました。この「はい、論破」、僕はとても危険なフレーズだと思っています。というのも、あの言葉は完全に自己満足の言葉であり、論破をすることにこだわると、ついつい、小さい視点で見た強烈な正論で「はい、論破」と言いだしてしまうからです。そして、その言葉が日本ではやったという事実に僕はゾッとします。そもそも、そんな完全に白黒つくことはほとんどないし、「はい、論破」というやつは本当に大きな視点で物事を見て、全体のための意見を言って、「はい、論破」と言っているのかとても疑問に思います。僕は全体を見て物事を見て判断し、意見をいう能力はまだまだ乏しいかもしれませんが、広い視野で物事を見て、全体のために意見をいう人になりたい。そして、大きな視点で物事を見て、大きな変化を起こそうとしているやつを潰すのではなく、応援できるような大人になりたいです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。