シューターのブログ

清々しい気持ちになるから落ちているゴミを拾いましょうなんて馬鹿馬鹿しい

 

小学校の授業で、「落ちているゴミを拾いましょう」と教えられた覚えがあります。そして、「ゴミを拾うと清々しい気持ちになる」というようなことを先生に言われた記憶があります。しかし、「落ちているゴミを拾うと清々しい気持ちになる」なんてことあんまり僕はありません。もちろん、心に余裕があって、何かいいことをしたいなと思っているときに、落ちているゴミを拾うと清々しい気持ちになるのですが、学校に遅刻するかしないかの瀬戸際で、道端に落ちているゴミを拾おうなんて思わないですし、たとえゴミを拾ったとしても、清々しい気持ちになるどころか、イライラするばかりです。さらに、「清々しい気持ちになる」という根拠で「ゴミを拾いましょう」ということが通るととてもやばいです。たとえば、「ある人のものを隠して、ものを隠された人が懸命にその人のものを探す姿を見ると、清々しい気持ちになります」と小学生が言った場合、先生や親は絶対に叱りますよね。でもよくよく考えて見ると、ものを隠す根拠は、ゴミを拾う根拠と同じなわけです。だから、「清々しい気持ちになる」という根拠で道徳を教えるのはやばいです。こんな根拠くらいであれば、「情けは人のためにならず」ということわざのように、良いことをすると巡り巡って自分にいいことが訪れる。ゴミを拾ったことを誰かが見ていてくれて、その行いが人づてで多くの人に伝わり、自分のやってることに協力してくれる人が増えるかも。だから、ゴミを拾うべきである。逆に人のものを隠したときのことを考えると、隠された人は嫌な気持ちになるし、見ていた周りの人も嫌な気持ちになる。そしてそのことが噂され、仲間外れにされたりするかも。だからやらないほうがいいよ。とかの方がよっぽど筋が通ります。まあ結局何が言いたいのかというと、今まで学校で教えられてきた道徳は適当で、危なっかしいものばっかりだなと思ったということです。

 

ゴミを拾うことの目的

 少し話が変わるのですが、道などに落ちているゴミを自ら拾うようにしている先生や社会人の方を数人知っています。その話を聞いて素晴らしい行いだなと思ったのですが、僕は決してその人たちが、街からゴミをなくしてやろうとゴミを拾っているとは思えません(笑)ではなぜゴミを拾っているのか...

 少し前の出来事なのですが、茨城県つくば市のゴミを拾おうというNPO団体を運営している方とお会いする機会がありました。そして、ゴミを拾うNPO団体を運営している理由にとても説得力がありました。その理由はもちろん「街からゴミをなくす」というものではなく、「ごみを拾うのっていいじゃんという風潮をつくる」という理由でした。街のゴミをなくすっていうのは絶対に無理、拾うのと同じ時に別の誰かゴミを道端に投げている。だから不可能であると。だったら、発想を変えてゴミを捨てない風潮、ゴミを拾うのっていいじゃんていう風潮を作れば、街が綺麗な方向に近づくよねという訳です。これは感銘を受けた発想であると同時に大きな問題に取り組む際に、とても使える考え方だなと思いました。例えば、外食に行った時に平気で食べ物を残す人がいるが、その人に対していちいち注意してもキリがないし、たまたま食べ物を残した人の体調が悪かっただけかもしれない。その人に食べ物を残すなと注意したら気の毒だし、いざこざに発展したりするかもしれない。それよりは、「外食で食べ物を残さない方がいいじゃんという風潮を作る」という考え方で問題解決に取り組むなど。こういう発想で少しビジネスプランや物事を考えてみようかなと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。