シューターのブログ

勉強が善だというのは間違い

 

ずっと腑に落ちない言葉が僕にはありました。その言葉は「勉強が善だというのは間違い」です。この言葉は僕の記憶の中ではYouTubeで”筑波大学准教授”兼”実業家”兼”メディアアーティスト”の落合陽一さんがおっしゃていました。落合陽一さんは日本は勉強することが善であるという文化があるがそれは間違いであることを語っていて、言われてみると確かに日本おかしいよなと僕も思いました。世の中は勉強できるから・できないからといって成功・失敗が決まっているわけではないし、勉強以外にもっと大事なことはあるしな...と。ただ、勉強することは自分をアップデートさせようとしていることだから、マストではないけれど、善ではあると僕は思っていました。

 

感じる力?...

この週末、「勉強が善だというのは間違い」が腑に落ちる話をある方にして頂きました。経営ゲームの懇親会ということもあり、周りが経営者さんばかりで、たまたま学生である僕が今から学ぶべきこと、そして現状の僕の弱い部分という話になりました。僕の強いところは”考える力”すなわち”理詰め”する力、一方、僕が弱い部分は”感じる力”だと指摘してくださいました。”理詰め”に関しては自身も武器だと思っていてました。世の中の流れがどうなっているか・世の中の構造がどういう仕組みか情報収集をし、そこから、自分の現状の能力・立ち位置を見て、僕が今何をすべきか、どういう行動を取っていく必要があるかまで落とし込むというのは周りの大学生と比べた時にできると僕自身が感じているからです。ただ、僕の弱い部分は「感じる力」だと聞いて、「そもそも感じる力って何?」「感じる力ってなんで必要なん?」と考えてしまいました(理詰め笑)。

 

理詰め・理論の限界

「感じる能力」の説明の前に、指摘してくれた方はまず「理詰め・理論だけでは限界がくる」ということを説明してくださいました。なんで、「理詰めだけでは限界がくるのか?」その答えはズバリ、「理詰め・理論は天才がやってきたことを万人ができるようにしたものである」からです。理詰め・理論を学ぶと自身を急速にアップデートすることはできるのですが、所詮、万人ができるようにしたものであって、理詰め・理論だけでは新しいことに自身で気がつき、新たなものや仕組みを作ることがなかなかできません。だから、理詰め・理論は限界であり、「勉強が善だというのは間違いだ」と言えます。やりたい人が、必要だと思った人が勉強するのが、理想ではありますが、あるべき勉強の在り方だと考えることができます。では、理詰め・理論では限界があるので何が必要か。ここで必要なのが「感じる能力」です。

 

感じる力とは

「感じる力」というと、なんか胡散臭い、怪しいようなニュアンスを感じるかもしれませんが、つまり、「直感」のことです。人をパッと見たときにその人の雰囲気を感じ取り、どんな心情だろう?、どんな性格なのかな?と僕は捉えています。そして、それが自然とできるようになると、人をパッと見ただけで、何に困っているのかとか、何をしてあげると喜んでくれるかとかがわかると思います。さらに、「感じる力」を磨くと、ものだったり、生活している中で当たり前の景色が当たり前ではなく見えるらしいです。例えば、生まれた時から広島に住んでいる人は路面電車が当たり前であり、景色になっていて、はたから見ると路面電車は価値があるのだが、特に路面電車に価値を感じません。(僕もあまり路面電車の価値がわかりません。)しかし、「感じる力」を磨いていると、いつも見ている景色を当たり前として見ず、その景色から価値を見いだすことができるそうです。

 

擬音語・擬態語

「感じる力」を人のパッと見て感じたことを擬音語・擬声語にすることが大事だよと言われました。(「おっとりしてるな」とか「ほんわかしてるな」とか「むすっとしてるな」とか)。実際に街を歩きながら、これをやってみると、自分が普段、他人をほとんど見ていないなと気がつきました。それにすぐに擬音語・擬声語に直すことがなかなかできない。ってことは人の気持ちを汲み取ることが僕は苦手なんだということに気がつきました。人と何かをする際、多分この感じる力、相手に気持ちを汲み取る力が一番大事だと思います。まずは人の気持ちを汲み取ることができるように、擬音語・擬声語で人の雰囲気を表す練習をしていきたいなと思います。それができるようになると、僕と一緒にいて楽しいと思ってくれる人、僕と仕事を一緒にしたいと思ってくれる人が現れて、仲間ができるかなと思います。そして、理詰め・理論にこだわり、勉強に集中しすぎて、周りの人をしっかり見ていなかったことに気がつきました。今まで僕が関わってきた人たちには申し訳ないです。

 

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