シューターのブログ

蜜柑と檸檬

 

今回は”柑橘類”についてではなく、前回に続いて日本文学を題材にブログを書きたいとおもいます。さて、いきなりですが、最近読んだ中で印象に残ったのは、芥川龍之介の『蜜柑』と梶井基次郎の『檸檬』です。どちらのフルーツとも、食べたことはあったのですが、読んだことはありませんでした(笑)この作品、読んでいて、(僕に足りない)作者の感性が溢れている作品であると、感じました。

 

蜜柑

まずは芥川龍之介について、僕の説明なんぞ要らないと思われますが、一応書いておきます。芥川龍之介といえば、『蜘蛛の糸』や『羅生門』で有名であり多くの方がご存知でしょう。22歳の時に処女作として、『老年』を発表し、自殺する35歳まで後世にまで読み続けられている作品を数々と打ち出した、才能あふれる作家です。そして、『蜜柑』は芥川の作家人生の中期にあたる時期に発表されています。話の内容は、一人の男が汽車に乗っており、その向かいの席に一人の少女が乗り込んでくる。一人の男がその少女のことを不快に思いつつも、少女のことを観察しながら、少女の行動とともに一人の男の心情が変化していくという話です。(内容の説明雑すぎるな)『蜜柑』の特徴は色彩表現が豊かで、それが心情と対比していることです。その色彩表現の感性とやらいうものは僕がいうことべきことではありませんが、素晴らしいと思うばかりで、僕もその感性を磨きたいなと思います。

 

檸檬

檸檬』を書いた、梶井基次郎については僕は全くと言っていいほど知りませんでした。教科書で、『檸檬』という題名をちらっと目にした程度で、作品を読んだことは愚か、認識はただただ、”柑橘類” という程度でした。そして、『檸檬』の話の内容なのですが、正直言って、僕は読んで理解ができませんでした。というのも、終始作者の感覚によって表現された文章で、理屈の基づいて物語が展開されていることがなかったからです。案の定、評論家の井上良雄は「梶井氏は原始人のように感覚だけで世界と交渉する」と述べました。『檸檬』が評価されているのは事実であり、僕がこの作品を明確にすごいと思えるようになるには、もっと感性を磨かなければならないと思いました。

 

都市社会と自然

『蜜柑』と『檸檬』を読んでいて一つ僕の中で明確になったことは、この作品は特に、現代において取り残されたもの”感覚”が存在するということです。まず現代について考えてみましょう。現代というのは情報化社会であり、「意味」で満たされた社会です。オフィスは、印刷するためのコピー機があり、部屋を明るくするための電灯があり、情報を管理するためにパソコンがあり、仕事をするための場として机がある。車は、運転で操作するためにハンドルがあり、後ろを見るためにバックミラーとサイドミラーがあります。街を歩けば、事故が起こらないように歩道があり、信号機があり、視覚障害者のために点字ブロックがあります。つまり僕が何を言いたいかというと、都市社会は意味のあるもの(~のため)がほとんどで構成されています。対して、人間が本来住んでいた自然というのは、山には石ころが転がっていて、草が生えていて、木が生えています。でも、それらに向かって「”何の為に”そこに石ころは転がっているのか、草・木がそこに生えているのか」と聞いても、答えはありません。(なぜかは学問的に解明されているものが多いですが)つまり、自然というものは、意味のないもので多くが構成されています。そういった中で人間が、動物が、生物が頼りにしてきたのが”感覚”です。人間の祖先である猿は、感覚的に危ない気がするから木に登って避難していたでしょうし、ライオンは感覚的に捕まえられそうな獲物を選んで、狩をしていた(する)でしょう。そして、犬は人間の一万倍嗅覚があるというのも、感覚を頼りにしていた故であり、一つの証拠として表れています。そういった、自然にはあって、都市社会で失われたもの”感覚”が日本文学の『蜜柑』『檸檬』には存分に使われて物語が書かれているからこそ、これらの作品には価値があると思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます