シューターのブログ

迷える若者 〜今の若者がコミュニティを求める理由は歴史を見ればわかる〜

 

近代とは

いきなりですが、「近代とはいつでしょうか?」と問われたらあなたは答えられますか?僕は今まで答えられませんでした。しかし、一つの近代の定義の仕方を知りました。そのきっかけはピースボート、いや正確にはピースボートについて批評した本、『希望難民ご一行様』(著:古市憲寿/本田由紀)を読んだという些細なことです。僕は今、大阪でボランティアという形でピースボートのポスターをお店に貼りまわり、微力ながら貢献ピースボートに貢献させてもらっています。そんなピースボート、面白い貢献の仕方をしているなと個人的に思います。で本題に戻りますと、近代の定義、あくまでもこれは社会学上の定義だそうですが、

「生まれた場所や身分に関係なく誰もが競争に参加して、成功を夢見ることのできる社会」

です。

これは一体どういうことのなのか、江戸時代から見ていくと納得できます。

 

江戸時代から戦後まで

前近代にあたる江戸時代は、生まれた場所によって一生が決まるという特徴がありました。基本は、農民の子は農民、商人の子は商人、武士の子は武士になるというのが当たり前の流れでした。ところが明治時代以降になると、それまでの宗教や身分から人々が解放され、自由になり、多くの人が競争に参加でき、富を地位を目指すことができるようになりました。言い換えると、近代の定義、

「生まれた場所や身分に関係なく誰もが競争に参加して、成功を夢見ることのできる社会」

になります。しかし、ここでもう一つ近代の定義があります。それは、

「みんなが一つの目標に向かって夢を追えた」

という定義です。これがどういうことかというと、明治時代になってから、人々は身分などの旧来のシステムから「自由」にはならなかったが、バラバラにはなりませんでした。身分から解放されても、人々は「地域」「家族」「会社」「国家」といった共同体に再編されました。人々は「地域」「家族」「会社」「国家」という共同体の中で、互いに競争しあったり、認めあったり、慰めあったり、助け合ったり、笑いあったりとしました。そして、その再編を支えたのが、戦前は「富国強兵」や「経済成長」であり、国民誰もが、「いいこと」だと信じて疑わず、みんなが「富国強兵」や「経済成長」を目指しました。つまり、

「みんなが一つの目標に向かって夢を追えた」

これが近代です。

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まあまあ古いポスター見っけ!

迷う僕たち若者

ところが、1991年頃から、流れが変わってきます。1991年はバブルが崩壊していった頃です。3年後の1994年には「就職氷河期」という言葉が流行語大賞になっており、「経済成長」という”みんなの目標”が一気に消え去りました。

「会社には就職できないし、そもそも会社って危ういもんじゃん。みんなの目標は消えるし、人生会社勤めに励むのって、人生において実は正解ではないのかも?」

といった疑問が若者の頭に浮かび始めたのがこの頃です。僕たち若者は、「好きなことを仕事にするのがいいなじゃない?」「最高の仲間や家族を作って、一生仲良く暮らすのがいいなじゃない?」と迷いの旅に出ます。そしてこれは今日の若者にも言えますし、否定したいですが僕にも言えることかもしれません。

 

寂しがる若者

バブルが崩壊してから、「会社」という共同体が弱いものになり、共同体の弱体化は教育にも伝播します。今まで教育は「いい学校に入るために、受験勉強で戦え、そこで勝っていい大学に入れば、大企業に入れる」というものであり、学校では、受験勉強という一つの目標に向かうことができました。そして、その戦いに勝てなかったものの多くは、それなりの収入・地位で諦め、幸か不幸か暮らしていくというのが大方の流れでした。しかし、バブルが崩壊してからは、大企業安泰が崩れ、受験勉強で頑張る意味が薄くなります。大企業に入らなくても活躍する人たち、稼ぐ人たちが多く世の中に出てきます。すると若者は「みんなで一つの目標を目指す」ということをしなくなりました。学校という共同体が弱くなり、サブカルが発達するなど趣味は多様化、向かう道もバラバラになり、若者たちは「何に向かえばいいのか?」と迷いに迷います。そして、慰めあったり、認めあったり、支えあったりする「共同体」が弱く、少なくなり、バブル崩壊から現代までの若者の多くは「寂しい」という気持ちに襲われます。

 

ピースボートの貢献

大阪でピースボートのボランティアとして活動していて感じることは、「ピースボート」は若者に対して「居場所」を提供しているということです。ピースボートにいる若者たちはポスター張りをする中で、共に頑張り、励まし合い、認め合い、絆を深めます。「寂しさ」を埋めることができる場所として機能しています。実際にピースボートにいると、「誰と船に乗るかが大事」ということを聞きます。先述の通り、「共同体」が弱くなり、若者は「寂しさ」をより感じるようになりました。時代の流れに合わせてピースボートは、若者の悩み解決とピースボート自体の活動をうまく合わせて進めています。「共同体」「居場所」を提供するピースボートにいて、こういう世の中への貢献の仕方もあるということを知りました。

 

僕は常に成長したい

若者は「共同体」や「居場所」を求めていて、「友達・仲間・家族」と大切にする価値観が一般的というのは、ピースボートにいて感じます。ただ僕は少し変わり者なのか、「仲間と過ごす」ことより、「勉強すること・一人でいること」の方が楽しいと感じます。「本を読んで、たくさんのことを知る」「何かに挑戦して、自分が成長する」ことに幸せを感じます。(もちろん仲間といることも楽しいですが...)そして、一つ、「共同体」や「居場所」を求めるが故に失いがちになってしまうものを提示しておきます。それは「目的性」です。寂しいから「共同体」「居場所」「仲間」が欲しいと意識・無意識にかかわらず、人生の冒険をしていると、目標を持たなくなったり、努力するということを忘れがちになったりします。寂しいが故にそれに惑わされ、気がついたら成長して、社会で上を目指すということをしなくなる。それは僕が一番避けたいことです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます