シューターのブログ

 

近代という時代の原爆

 

もう8月、広島に住んでいるとまたあの日が近づいてきたなを思います。そう8月6日、広島に原爆が落ちた日です。この1年間、歴史や哲学の本を読んできて、長いスパンで歴史を見るようになると、いろんな論点で歴史は繰り返すというか波があることに気がつきました。歴史は面白いです。そして、色々思うところがあるので広島の原爆について書いてみようかなと思います。

 

倫理や道徳を置き去りにしてきた近代

 

ときどき「常識を疑え」「当たり前を疑え」というような趣旨のことを耳にします。個人的には少しわかりづらいと思っていて、「その常識や当たり前はいつ頃からどういう背景で成立したの?」というのが、僕としてはわかりやすいなと思っています。

普段生活をしていると、色々な場面で「それ当たり前」と言ったり、言われたりします。ではその「当たり前」がいつできあがったのかを見ていくと、現在の当たり前の多くが「産業革命」や「フランス革命」の後、つまり近代以降にできあがっていると思います。

ではその近代で何が起こったか、「自然科学や技術が発達し、倫理や道徳が置き去りにされた」、一言でいうならばこうだと思います。

 

近代とはどういう時代だったか

中世以前、人間は小さな共同体で生活していました。「会う人の顔と名前が全部一致して覚えている」というような小さなコミュニティです。それが17世紀後半以降、国家が誕生しました。国家は共同体を解体して、個人レベルで人を管理するようになりました。そして、国民としてのアイデンティティを持たせるためにいろいろなことをしたのですが、その一つに「戦争」があります。「我が国はA国に勝利した!A国民万歳!!」っていう感じで、国民意識を植え付けました。

また、共同体が解体されて、ある意味「人のために」という意識より「自分のために」という意識が強くなっていきました。加えて資本主義が本格的になり、お金がお金を生む時代、資産を増やすことが重要であるという価値観に席巻される時代へと突入しました。

自然科学や技術が発展し、人は物質的に豊かな生活をするようになりました。頑張れば「自分が」報われるんだということに味をしめ、一生懸命稼ぎを増やすことに尽力するようになりました。

これは国家レベルでも同じでした。自分の国が豊かになるには、とナショナリズムに突き動かされ、大きな戦争が世界で繰り広げられるようになりました。自然科学や技術が発達し、兵器が強力になり、多くの死傷者が出る戦争へとエスカレートしました。

 

共同体が解体され、国家が生まれ、個人を生み出し、金が幅を利かせ、自然科学や技術が発達した。

 

近代にはいい面がたくさんあると思いますが、穿った見方をするとこういう言い方もできるのではないでしょうか。

 

時代を象徴した原爆

原爆は自然科学や技術が暴走した典型的な例です。近代にはいって自然科学や技術は急速に発達しましたが、それに伴うスピードで倫理や道徳は発達しませんでした。だからそれらは悪用され、原爆という兵器が作られ、使用されるに至ったのです。

そんな時代でしたが最近、倫理や道徳をベースにしたソフトパワー戦略がヨーロッパを中心に展開されています。環境問題やジェンダーの問題、人種問題など。地政学的な話はあるものの、これは結果的にいい流れなのではないかと思います。

自然科学や技術が発展して、次はやっと倫理や道徳が発展する時代へと変遷していくのかなという気がします。人文科学の時代到来かもしれないんですね。

より平和な世界になりますように。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます

 

参考文献

内山節 『内山節著作集(5)』 農山漁村文化協会 1986年

内山節 『新・幸福論』 新潮社 2013年

マルクス・ガブリエル/大野和基 『つながり過ぎた世界の先に』 PHP研究所 (2021年)

斎藤幸平 『人新世の「資本論」』 集英社 (2020年)