シューターのブログ

わからなくて当たり前

 

懐かしメンバーとサッカー

年明けに小学校の時のサッカークラブのメンバーが集まってサッカーをしました。懐かしいコーチや同級生、高校生、中学生、小学生が混じってのサッカーで、だいぶ動きました。しかし、普段あまり運動をしていないせいか、今は筋肉痛で身体中が悲鳴をあげております(笑)そして、久しぶりのメンバーが集まり顔を合わせると、「だいぶみんな変わったなー(笑)」って感じで、なんか感慨深かったです。もうすぐ二十歳になるとか、小学校の頃は考えてもいませんでした。

 

荒野行動

サッカーのお昼休みにある小学生が僕に話しかけてきてくれました。確か小学3年生って言ってたかな?その子は僕にひたすら『荒野行動』というゲームの話をしてきました。でも僕、「荒野行動」というゲームやったことがないですし、そもそもゲームは自分の中では中学校で卒業していて、普段は基本ゲームをやらないんです...。小学校・中学校と友達とモンハンをやりまくって、あれで一生分のゲームをやったと自身は思っています(笑)。で、「荒野行動」の話はというと、「フェラーリを奪って、乗り回して、敵を倒した」みたいな話で、それを輝いた目で僕を見つめながら、生き生きとな話すんです(苦笑)。あまり自分から小さい子に話をかけるのは苦手な方なので、いつも「うん」「確かに」「なるほど」「そーか」と言いながら相槌を打つことしかできなく、案の定、今回もそんな感じで相槌を打ちに打っていました。そして話を聞きながら、「みんな興味を持っていることは違うし、人は分かり合えないもんだな」と当たり前のことが思い浮かびました(笑)

 

興味の持っていること、前提はみんな違う

小学生の「荒野行動」の話、小学生は生き生きと話していて楽しそうだったのですが、僕は全くもって興味がなく、テンションや感動を共有すること、共感することができませんでした。(自分で言うのもあれだけど、俺ひどい奴だな ...) でも、このようなことを僕は、普段たくさんしているなと話を聞きながら感じました(゚ω゚) というのも、僕が興味を持っていることって、おそらく大部分の人が興味を持っていないことなんです(笑)。例えば、この数日で興味があることは、「中国の外交戦略」「都市社会と自然」「児童書」などなど。そして、そのようなことをついつい、友達や家族に話してしまうんです。相手は絶対に興味ないだろって内容なのに。「中国の対外強硬路線は、大国が小国には勝てないという逆説の論理に陥っているんだよね〜」とか、「都市社会は、意味のあることを追求してできた意識の世界であるのに対し、自然は意味のないものがたくさんある感覚の世界なんだ。だから、人間は日常で感覚を知らず知らずのうちに鈍らせているんだよね〜」とか「子供の頃に読み聞かせをしてもらったであろう『はらぺこあおむし』実は超深いんだよ〜」とか。急に話されても「はっ?」てなりますよね(笑)(この辺りの話は僕の自己満足で、気が向いたときにブログにします!)

 

他人のことなどわからないもの

先日、フラ〜っと本屋さんに入り、養老孟司さんの本が目に入りました。「『〇〇の壁』って題名、養老さん好きだなぁ」とか思いながら本を手に取ったのが最後、立ち読みで完読してしまいました。その本は『「他人」の壁』(養老孟司/名越康文 著)です。この本に興味深いことが書いてありました。それは「他人のことなどわからないもの」ということです。わからないのは前提が違うから当たり前。興味を持っていることも、経験や環境が人それぞれ違うのにわかりあえるわけがないとのことです。「何十年も一緒にいる奥さんのこともやっぱわかんない」と養老孟司さんはおっしゃっていました(笑)。でも確かに養老さんの言っていることは納得できるし、自分のことに置き換えて考えてみると、「十数年一緒にいる親が何考えているか」、「仲のいい友達が何考えているか」、わかっている気がしてるだけで全然わかっていません。(僕の場合、他人に対する興味が薄いってのがそもそも問題かも...) でもそれって当たり前なんです。だって前提が違うから。

 

「分かり合えない」を前提で分かろうとする

『「他人」の壁』の中で、「「わかりたい」「わかってあげたい」、あるいは「わからないといけない」と考える傾向って、年齢層でいうと、高齢者より若い人の方が強いかもしれない」というようなことが書いてありました。そして「20年くらい前から、日本の大学に心理関係の学科がたくさんできたのを見てわかる。同時に至る所でカウンセラーも出現した。」と書いてありました。つまり、「人に自分をわかってもらいたい、絵わかってもらえれば幸せになると考えた人が増えた」ということが言えます。(もちろん、心理学は有用な学問だと思いますし、カウンセラーも世の中に必要な職業だと思いますよ)でも、結局人は完全には、分かり合えないし、それが当然です。でも、それを「自分のことはわかってもらうことができる」、そして「相手のことをわかることができる」と思って、分かろうとすると「わかってもらえないこと」「わからないこと」に悩んだり、相手と衝突したりすると思います。だから、「分かり合えない」というのを前提に分かろうとすると、気持ち的に楽だし、「わかってもらえた時」「わかった時」に嬉しいし、無駄な衝突も起こらない。だから、「分かり合えない」を前提に分かろうとすることがとても大事だと思います。

 

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