シューターのブログ

 

大人にならない・夢を持つ

 

 1日が終わり、目を瞑ると考え事をしてしまう、そんな日が時々ある。それは決まって、始まりと終わりとはなんだろう、すなわち生まれて死ぬとはなんだろう、ということである。

 死んだらどうなるんだろうと想像すると、たちまちとてつもない恐怖に襲われる。多分、掌に包まれた氷が溶けたらどうしようと不安に思っているうちに溶けてなくなっている。人生なんてそんなものなのかもしれない。

 死について考える、すると生について考えるようになる。でも死についても生についても、考えても答えなんて出ないし、むしろ恐怖感に疲れてしまった。だから、一旦死んでしまうということを、気持ちの上では納得できないけど受け止めておくことにした。

 

何も恐れずただ前を向く

 一日中外を駆け回り、ひぐらしが鳴くと家で夕飯を食べに家に戻る。家でゆっくりするともう寝る時間。明日は何をしようと床に就く。サッカーを一日中して、夜が来て、明日はどんな練習をしようと心を躍らせる。一日中本を読み漁り、明日は何を新しく知るのだろうかと、胸を高鳴らせる。そんな時は何も恐れていなかった。自分にいつか終わりがあるなんてことを考えても見なかった。

 死を考えるようになると、自分の終わりを考えたことのなかったあの頃は、なんかかっこいいなと思うようになった。もっというと、自分だけじゃなくて、ただ毎日をひたむきに生きてる人たち、動物・植物がかっこいいな、美しいなと最近は思う。

 何も恐れずただ前を向く

 

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり

信長が言ったように、一生というものは一瞬である。人が避けることのできない、突きつけられた事実である。

その事実を真正面から考えた時、常識とは何かと僕は思う。あたかも自分は世の中のことをわかっているという態度は、なんと悲しいことかと思うのである。「そういう人って痛いよね」と思うわけでは決してない。人の一生は短いのだから、自分の中で当たり前をたくさん持つこと、その当たり前に固執することが何か、悲しく感じるのだ。

知ったげにはならない。言い換えると、下手に大人にならない。かっこよく美しく生きるための秘訣なのではないかと最近思う。そして、夢を持つこと、何かを目指すこと。これが生きることなのかな、今できることなのかなと思う。

 

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