シューターのブログ

ドラッカー

 

 つい先日、一昔前に流行ったもしドラともしイノを読みました。ある経営者の方から「ドラッカーについての本は読んで勉強をしておいた方がいいよ」というお言葉を頂いていたので、ドラッカーにとっかかりやすそうな『もしドラ』から読んでみました。

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もしドラ(表紙)

もしドラ

まずはじめに『もしドラ』の正式名称から確認しておくと、”もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら”です。内容は題名の通りで、高校野球部の女子マネージャーがドラッカーの経営書『マネジメント』を読み、ドラッカーの教えを元に野球部を甲子園に連れていくという小説です。この本のいいところは、小説にしていることにより、ドラッカーの言っていることを具体的なところに落とし込んでいるという点です。僕はドラッカーの『マネジメント』をまだ読んでいないのでなんとも言えませんが、おそらくこの小説はドラッカーの言っていることがとても理解しやすくなっていると思います。

 

マネジメントとは

もしドラ』を読んで一番印象に残ったことは、「マネジメント」とは何かということです。この本を読んだ目的は、よくわかっていないマネジメントを理解するためなので、当たり前と言えば当たり前なのですが(笑)! そしてマネジメントとはなんなのか? その答えを知る前に知っておくべきことがあります。それは、「組織」とは何か?ということです。直入に「組織」とは、人の強みを生産に結びつけ、人の弱みを中和するためにあります。とすれば、マネジメントとは「組織」をそういう状態に持っていくためにあります。つまり、「人の強みを発揮させることである」と本に書いてありました。そして、「人の強みを生産的なものに結びつけること」でもあるそうです。

 

マネジメントと教育って逆じゃん?!

先ほども書いたように、「マネジメント」は人の強みに注目しますが、「教育」についてふと考えてみると、「教育」は人の弱みに注目するなと思いました(特に日本の教育は!)。一つ例に挙げると、センター試験(2020年度からの大学入学共通テストも同様)。センター試験は先生や生徒自身が生徒の弱みに注目するように仕向けています。例えば、ある生徒が数学が得意かつ好きで、あまり努力しなくてもセンター9割程度が取れるとします。そして、数学が大好きがゆえにもっと勉強したいと生徒が思っているとします。しかし、旧帝大などのいわゆる学歴の高い大学に行こうとすれば必然的に5教科7科目、まんべんなく高得点を獲得しなければならず、数学の勉強に時間を割き、数学で飛び抜けた人材になろうとしても、苦手な英語や社会に勉強時間を当てなければならないし、先生もバランスよく勉強しなさいと指導します(バランスよく勉強することに確かに意味はると思いますし、それを強く主張する先生も多くいるのは承知してますが、僕はそれでもバランスよく勉強は時代遅れだと思っています。ちょっと脱線しました。笑)。 他にも、学校そもそもが、生徒を集団行動させ、集団行動から外れた生徒を注意しますよね。(”相対的に”時間にルーズだとか、うるさいだとか、態度が悪いだとか)これ自体も「教育」が弱みに注目していることの証拠です。(まあ、ここに関してはいい面・悪い面あると思いますが、苦笑)

結局言いたいことは、「マネジメント」と「教育」が逆である。つまり、学校での組織と、社会での組織は違うんだということです。社会に出て行く前段階にある教育機関が社会と逆のことをやっているのは少し不思議です。

 

専門家にはマネージャーが必要!

もう一つ『もしドラ』を読んでいて印象に残ったのは専門家についての記述です。専門家については専門用語を使いがちであり、コミュニケーションに問題があると書いてありました。専門家の知識は価値ある情報であるのですが、彼らのアウトプットが周りの人のインプットにならないと意味がない。つまり、専門家の言っていることを周りの人に理解してもらって初めて意味が生まれるというわけです。だから、専門家が言っていることを周りの人にわかる人に伝えるような役割の人として、マネージャーが必要です。

 

やっぱ池上彰さんすごい!

マネージャー的な役割を果たしているのは誰だと考えたときに僕の頭に1番に思い浮かんだのは池上彰さんです(池上彰さんはマネージャーではないのですが笑)。池上彰さんはわかりにくいニュースをわかりやすく解説している。つまり、専門家が言っていることや難しい複雑なことを多くの一般の人にわかりやすく、理解できるように解説している。そういう意味でとてもマネージャー的役割を社会で果たしていると思います。そして、僕がなるべき姿は池上彰さんのように、自身の言っていることを周りの人にわかりやすく伝えられるようになるのとともに、専門家と一般の人と間に立って、翻訳できるようになることだと思っています。この能力は僕自身が会社をやっていく上でとても重要だと思っています。さらに、会社だけでなく日常生活でも大きな力を発揮すると思っています。知識は人に伝わって初めて意味があるということを心に留めておきたいです。

 

もしドラ』の勧め

最後にこの本ぜひ読んでみてということだけ書いておきます(笑)。この本は意外と短なことで知っていると知らないでは大きな違いを産むような大切なことが書いてあり、経営者になりたい人が読むのはもちろん、一般の人が読むべき本だと思っています。そもそも『「組織」とは?「専門家」とは?』といった普段使う用語に関しての本質がこの本を読むとわかります。だから、ぜひ一読してみてください。

 

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サンタになりました!

 

 今年のクリスマスイブは自身がサンタクロースになりました。

右から2番目が僕です(^ ^)

結構本格的なサンタですよね(笑)。本格的なだけであって僕であることが全くわかりません( ;∀;)

ところで、なぜ僕がサンタの格好をしているのか。もちろんクリスマスだからではありますが、ただコスプレをしているわけではありません(笑)実際にサンタになってご家庭を回り、子供へプレゼントを届けるためです。

 

チャリティーサンタ

この活動はNPO法人チャリティーサンタによる活動で、実際にサンタになって、ご家庭に赴き、プレゼントを届けるというものです。子供さんのいるご家庭からご依頼を受けて、サンタを信じてる子ども達(半信半疑の子供いましたが、笑)の夢を壊さないように子ども達にプレゼントを届けるとともに、親御さんにもちょっとしたプレゼントをお届けし、思い出に残るクリスマス、感動をお届するというものです。

 

サンタになってみて

人生初のサンタはとても緊張、笑い、感動とあり、色々と感じること、学ぶことがありました。サンタはソリに乗って移動するというイメージかもしれませんが、僕たちサンタはバスに乗り、歩いて、市電に乗って移動しました( ・∇・) 道中ではたくさんの子供達に出会い、チョコレートを配るのがとても楽しかったです。サンタを見るだけで笑顔になってくれる人がたくさんいて、僕自身とても感動をもらいました。道中でサンタのズボンがずれて、正体がバレそうに(バレたかな... )なったのはとっても焦りましたが。そして、お訪ねするおうちに近づくにつれ緊張しました。とにかく夢を壊さないようにしようとシナリオを思い出しながら、歩きました。お家に到着し、インターフォンを押すと(*煙突からは入りません笑)、いざ子供達とご対面。笑顔の子、緊張して完全にフリーズした子、偽物だと疑う子と様々でした。ですが、どのご家庭も協力的で、サポートサンタの協力もあり、うまくサンタとしてやってくことができました。子どもさんの頑張っていること、もうちょっと頑張って欲しいところをサンタが子どもさん自身に直接お話し、その後にプレゼントをお渡ししました。子どもさんはもちろん、ご家庭の方も笑顔になってくれて、とても温かい時間をいただきました。サンタになってみるもんです^ ^

 

どっちが僕でしょう

 

僕なりの社会への貢献の仕方

今年のクリスマスはたくさんの人に出会い、いろんな話を一緒にしました。そんな中、僕はどうやって社会に貢献ができるだろうかと考えました。人それぞれ得意不得意があって、僕にはない良いところを持った人がたくさんいて、とても勉強になりました。行動力のある人、面倒見のいい人、思いやりのある人、絵が得意な人、歌や音楽が得意な人など本当にたくさんの人がいるなということを改めて肌で感じました。また、僕自身が将来、資本主義がカバーしていないところで価値を生み出し、世の中へ、人へ提供したいのか(NPO法人等がやってる活動のようなこと、この活動も)、資本主義がカバーしているところで価値を生み出し、世の中へ、人へ提供したいのかも考えさせられました。資本主義はいいところもある反面、置き去りにしてきたものがたくさんある。本当は資本主義がカバーしているところと、していないところの両方、両輪で社会を走っていくことが理想ですが、今はそうはなっていません。だから、もっと資本主義がカバーしていないところで社会に貢献する人は増えないといけません。でも、資本主義がカバーしているところで生きていき、価値を生み出して、多くの人や世の中に提供することはとても能力が必要であって欠かせない存在であり、世の中に大きな影響を与えることができます。だから、僕は何が得意で、どんな人と一緒に何がやりたいのか。そしてどんな価値を世の中へ提供したいのかを改めて考えなければなと思います。今の所は僕自身が会社を立ち上げ、価値を生み出し、世の中に価値を提供したいと考えています。

 

サンタとサポートサンタが集合

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日韓請求権協定

 

僕にしては珍しく、新聞を見ていて「三菱重に賠償2審も命じる」という記事が目にとまりました。孫正義の話である『あんぽん』を読んでから、「韓国」というワードに対して自然とアンテナを張ってあるのか、記事をみて調べてみようという気になりました。まずは記事の内容から説明すると、

太平洋戦争時に名古屋の軍需工場へ動員され、強制労働されていた韓国人2人が三菱鉱業に損害賠償を求めた訴訟の控訴審で、2018年12月14日に光州地裁控訴部が同社に支払いを命じた一審判決を支持する原告勝訴判決を言い渡した。1審判決はというと、約1億2320万ウォン(約1200万円)の賠償を命じた

という内容です。

こじれにこじれまくって何が真実かわからない慰安婦問題が最近少し静かになってきたにも関わらず、今度はこの問題で日韓関係が悪化しそうだなと思いました...。とりあえず慰安婦問題も少なからず関わっている日韓請求協定をおさらいして、「三菱重工への賠償命令」のニュースを見ていこうと思いました。

 

約束は慎重かつ綿密にやろう!

まずは遡ること53年前の1965年、日韓基本条約で日韓請求権協定が結ばれました。ざっくりと説明すると、日本が韓国に総額で8億ドルほど渡すから、戦争で日本が韓国にしたことはこれでチャラねという協定です。この協定で2000年くらいまでは日本政府・韓国政府とも合意していました。ところが2000年代に入ると、日本と韓国の言ってることが違ってきます。日本はもともと日韓請求権協定で、韓国政府が日本政府に訴えることを日韓条約で無しにしただけで、被害を受けた韓国人個人が訴えることは協定で禁してはいないと認識していましたが、それを覆しました。対して韓国は日韓請求権協定で韓国政府が日本政府に訴えることも、被害を受けた韓国人個人が日本政府に訴えることも両方、協定によって禁止したと認識していましたが、それを2000年代に入って覆しました。

 

出来事の背景

 そして2012年5月24日、韓国人元徴用工らが三菱重工新日本製鐵に損害賠償を求めていた件で、韓国大法院(韓国の最高裁)は上告判決で原告の請求権を認める初の判断をしました。さらに同年には韓国政府が「日本強制動員現存企業299社リスト」を作成しました。雑ではありますが、そこからだいぶ飛んで2017年8月17日、文在寅(ムン・ジェンイン)大統領が2012年の韓国大法院の判断を「政府の立場」とし、対日請求権は認めないとする日韓政府の共通認識を明らかに覆しました。そしての今年の2018年春、三菱重工が韓国現地法人を解散・清算しています。ちなみにこの出来事は今起こっている賠償金請求問題を三菱重工が見越してやった行動です。2018年10月以降、日本企業に強制動員被害への賠償を命じる判決が3件でているという状況です。

 

多くの日本企業から韓国から撤退するのでは?

 出来事の背景を述べる中で、2018年春に三菱重工が韓国から撤退したということは書きましたが、他にも富士ゼロックスが韓国の仁川工場を閉鎖することを決めています。ではなぜ、三菱重工富士ゼロックスが韓国から撤退することを決めたのか。それは、今起こっているように企業が徴用工問題で裁判において訴えられた時、韓国にある資産を取り押さえられないようにするためです。もちろん三菱重工富士ゼロックス共に韓国政府が作成した「日本強制動員現存企業299社リスト」に載っており、他の企業も韓国で訴えることを考え、この2社のように韓国から撤退することが予想されます。すると、韓国人でリストラされる人は多く出てきて、反日感情というのは韓国国内でさらに生まれ、日本製品が韓国で売れなくなるということも予想ができます。

 

強制労働の例

 

「日本強制動員現存企業299社リスト」からもわかるように、日本は朝鮮人にかなり強制労働をさせていました。ここでは僕が知っている一部の例を紹介したいと思います。例えば、炭鉱での強制労働。危険を伴う炭鉱での仕事を日本人は韓国人にやらせていました。そんな中起こったのが、三井三池三川炭鉱粉塵爆発事件。(他にもたくさん起こっていましたが...)昭和38年11月9日に起こった爆発事故で、死者458人、重軽傷839人にも及ぶ戦後最大の炭鉱事故でした。さらに昭和40年6月1日には、三井山野炭鉱ガス爆発事故が起きました。葉っぱ作業中にメタンガスの突出事故が発生し、構内に充満して引火次第爆発しました。死者237人で戦後の炭鉱災害市場2番目の大惨事です。この事故では孫正義の叔父も亡くなっています。このように日本は朝鮮人に過酷なで危険な労働を戦時中だけでなく、戦後もさせていました。さらにそういった強制労働で巨万の富を築いた例が麻生財閥です。現政治家麻生太郎の曽祖父、麻生太吉が朝鮮から大量の労働者を集め、筑豊炭鉱で働かせ、巨万の富を築きました。ちなみに麻生財閥の企業、麻生セメントは韓国政府が作成した徴用工「299社」リストに記載されています。

 

まとめ

結局日韓関係は複雑であること、日本は北朝鮮拉致問題の大規模バージョンのようなことをやっていたんだなということが新聞記事から内容を掘り下げていく中でわかりました。それと約束は慎重に綿密にやるべきだということです。とりあえず、多くの日本人が日韓問題に関して知っておくということは、これからの日本を作っていく上で大事だと思います。それと最後の最後に脱線しますが、新聞がとても役に立つなということを実感しました。特におすすめなのが、新聞記事→検索→書籍の順番に内容を掘り下げていくことです。内容を深く理解するのにおすすめです。他にも、SNS→リンク→書籍なんかもとてもおすすめです。何かを研究したいという人にはいいかもしれません(笑)

 

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広島での差別

 

ここ数週間ブログをサボり気味で頻度を上げなければなと思い至り久しぶりにブログをかきます。今日のブログを少し重い内容かもしれませんが、広島での差別の歴史についてです。最近、日韓関係を個人的に調べたり、沖縄についての学習をしたりの日々で、「差別」というワードによく出会います。そういうワードに自身がアンテナを立てているのか、噂で広島でも数十年前まで差別があったということを耳にしました。そこで、広島の過去について今自分が調べていることを今日はブログにします。

 

学校で教えてもらった記憶がない

広島といえばやはり、原子爆弾が落ちて甚大な被害を受け、そこから復興したという印象を持っている人が多いでしょうし、広島で小・中・高・学校と過ごして僕自身も広島に関する学習では繰り返しこのことを勉強してきました。しかし、広島に被差別部落があったということは国語・数学・英語・理科・社会の5科目ではおろか、地域学習(広島に関する学習)でも習った記憶がなく、そんな事実はないだろうと思っていました。ただ、やはり地元の方や一昔前の広島に住んでいる方の記憶には被差別部落が広島にあったということが残っているようです。そして、25年くらい前には、被差別部落出身の人と結婚するのを親や親戚一同が反対するということがあったそうです(僕が知らないだけで今でもあるかもしれませんが)。

 

被差別部落

広島は被差別部落の数が福岡に次いで全国2位だったそうです。戦前の日本の社会事業団体である中央融和事業協会が1936年に発行した『全國部落調査』によると広島県内には被差別部落が400以上存在していたようで、僕が小さい頃、友達と遊んだ事のある場所も実は被差別部落だったんだと知り驚くばかりです。(『全國部落調査』には全国の被差別部落が掲載されています。ネット上にも載っているので興味のある方は是非見てみては)そして広島には全国で5本の指に入るほど規模を誇る被差別部落広島市西区福島地区(福島町、南三篠町、都町)もあったそうです。このように身近な場所に被差別部落という黒い歴史を持った場所があったということは驚きとともに、日本は文化レベルで自分が知らないだけで意外と差別をしてきた国なんだろうなということを感じました。今まで自分が通ってきた広島の教育機関で「日本、そして広島ではこのような歴史がある。だから、差別は意外と近くにある問題で、日本人である君たち、広島人である君たちが真剣に考えなければならない問題だよ」と教えてもらわらないこと、そもそもこのことを教えてもらわないことはとても不可思議に感じます。

 

なぜ被差別部落は生まれた?

被差別部落が生まれた時期は江戸時代。士農工商身分制度として日本では適用されたのはご存知かと思いますが、そこで加えて習ったのが、穢多・非民(えた・ひみん)であったはずです。穢多・非民がどういう身分かというと士農工商よりも下の身分で、人としての扱いをされていませんでした。なぜそのような身分制度にしたのかというと、士農工商の人たちより下の身分を作ることにより、「自分たちの生活が多少苦しくても被差別部落にいる人たちよりはマシだよね。だから僕たち頑張ろう」と士農工商の人たちに思わせるためだと思います。そしてその身分制度は人間の単純かつ残酷な性質を利用したものだなとも思います。

 

広島に被差別部落が多かった理由

広島には明治時代に呉軍港が開港されたこと、日本海軍に納める豚・鳥・牛の肉のための屠畜場(豚や牛、鳥などの家畜を殺して解体して、加工する場所)が多く設けれらたからだそうです。そういったところで人を働かせ、その人たちを穢多・非民として扱うという事があったそうです。30年程前、福島町あたりは匂いがひどかったんだよということを年配の方から聞いたことがありますが、被差別部落の存在を僕自身しり、やっとつながりました。

 

僕の憶測〜ヤクザ・暴力団

広島といえば一昔前は治安が悪く、ヤクザや暴力団だらけというイメージがありました。『仁義なき戦い』や『孤狼の血』といった映画もありますし...。そして、ヤクザや暴力団が広島で多かった理由は、被差別部落が多かったからではないかと思います。被差別部落の数が1位の県は福岡でヤクザ・暴力団が多かった、治安の悪かった街です。そして広島も被差別部落の数が2位でヤクザ・暴力団が多かった。だから、被差別部落の存在とヤクザ・暴力団の数は間接的に関係があるのではないかと考えています。広島では不当な扱いを受ける被差別部落の人が多くいて、生きる希望がない人も多かった。そいういった人たちがグレてヤクザ・暴力団を形成し力を強めていっということも考えられます。(実際に被差別部落出身の人たちが集まって形成した組もあるようです。)

 

差別と向き合う

日本人の特徴として、集団での行動が得意だということがよくスポーツなどで取り上げられると思います。このことに関しては一長一短あり、良い悪いというものではないのですが、日本人が集団を好む理由としてはもともと農耕民族だったという歴史とともに、被差別部落が存在し、一般的(大衆的)集団から逸れるのが怖い、危ないという認識があったからなのではないかと思います(昔の村八分なんかもそう)。そして大きな集団にいることが良いという感覚が日本人にはあり、自分が所属している集団の人以外には排他的な面があると思います(少数意見の尊重もあまり日本では感じられないですし)。そして、日本にいる外国人は日本人から差別を受けたと感じたことがあるという人も多いようです。時代の大きな転換期にある現代、日本人は差別を多くしてきたという歴史と向き合い、集団がどうあるべきか、組織や社会制度がどうあるべきか考えるべきタイミングかなと僕は思います。

 

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タバコそりゃなくなんねえわ

 

昨日は広島市議会議員の豊島岩白氏のご講演を聞きに行きました。豊島さんは「広島市をアジアのジュネーブにする」というビジョンを掲げられ、日々ご活躍されておられる方です。豊島さんのお話を聞こうと思ったきっかけは数日前にMICE戦略の記事を見て豊島さんに興味を持っており、その矢先に偶然、豊島さんのご講演があるから是非来て勉強をしないかというありがたいお誘いの言葉があり、昨日会場に足を運びました。とはいうものの、開始時間が朝6時!!5時起きで5時半過ぎに家を出てチャリを漕ぐというハードな1日のスタートとなりました。

 

外貨獲得は広島が生き残るための道だ!

MICE戦略が広島市に必要ではないかということを豊島さんは広島市の現状から導き出し、ご講演でご説明されていました。とはいえ、まずはMICEとはないかという事を描いてみます。直入にMICEとは(Meeting, Incentive, Convention, Exhibition)の頭文字をとった造語で、研修や報奨、国際会議、国際見本市などを指します。そして、MICE戦略はこれらを増やそうという戦略です。ではなぜ、広島で開催するMICEを増やす必要性があるのか。それは少子高齢化個人消費を紐解いてくとその理由がわかると豊島さんは説明されていました。

 

税収の減少

豊島さんのご講演ではまず、日本人一人当たりがどれくらい個人消費をしているかという事からお話しされていました。人が生まれてから死ぬまでの年平均個人消費額は121万円であり、人一人がなくなると、年121万円の個人消費がなくなるということを言っていました。(その計算に関して僕は正直無理があるなと思いましたが、わかりやすく説明するためにおっしゃっていたのかなとも思います。)で、僕が調べたところ、広島市の人口は今後25年ほどで10万人減るという予測がありました。年121万円の考えに基づくと、25年後には広島市住民の個人消費が1210億円なくなります。ということは必然的に莫大な税収の減少が生じます。その一方で公共サービスの維持費は変わらないか、下水管や水道管、橋の建て替え時期の到来により費用が増えてしまいます。このままでは広島市が衰退してしまうということを豊島さんは講演参加者に訴えかけました。

 

国連事務局がアジアにない...

広島に国連事務局を誘致してMICEを増やそうというのが豊島さんの掲げる目標です。国連事務局は今、ニューヨーク国連本部・ジュネーブ事務局・ウィーン事務局・ナイロビ事務局の4箇所が主です。つまり世界人口の6割を占めるアジアに国連事務局がないというわけです。そこで、平和都市広島に国連事務局を誘致し、MICEを増やそうというわけです。さらに副産物として、広島に国連事務局を置くと、広島に攻撃することイコール世界を敵に回すことだから、ミサイルは広島に飛んでこないとおっしゃっていました(笑)。ちなみに人口約120万人の広島の今の国際会議件数は70台後半なのですが、国連事務局のあるジュネーブは人口18万人にも関わらず国際会議件数は大小合わせて5000件ほどあるそうです。そして、国際会議に参加される方が会議が行われる場所で消費する平均額は10万円ほどでそうです。広島に来る観光客の広島での平均消費額が1万8000円、広島に出張でくるサラリーマンの広島での平均消費額が3万8000円であるので、国際会議の誘致が経済に大きな影響を与えることは明らかであり、これは少子高齢化による個人消費の減少に対応する術となり得ます。

 

政治が身近に感じられた

講演会ではMICE戦略の他にも、アストラムラインの話、市長と市議会議員の違い、衆議院参議院の役割、草津港の再開発など、様々なことを話してくださいました。そして、とても身近に政治を感じることが出来ました。そしてそういった話の中で僕が印象に残ったのはタバコ税が広島市の予算に80億円ほど入っているという話でした。広島市のホームページで正確な数字を調べてみると、平成30年度には確かに市タバコ税が歳入として74億円ほど入っていました。74億円という数字はなかなか僕自身想像がつかなかったので、僕の通っている広島市立大学の1年間の予算を調べてみると54億円ほどでした。(広島市立大学はそのうち1億円ほど市からお金を受け取っているそうです。)つまり、広島市に入るタバコ税で一つの大学の運営ができるというくらい、タバコの経済効果は大きいというわけです。これは皮肉にも、タバコはなくなんないなと思いました。この講演では政治が身近に感じられるとともに、お金の流れを見ていくとお金には情報が付随しており、社会のことを色々と知れるということを学びました。昨日の講演をきっかけに政治の勉強も始めようと思います。

 

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勉強が善だというのは間違い

 

ずっと腑に落ちない言葉が僕にはありました。その言葉は「勉強が善だというのは間違い」です。この言葉は僕の記憶の中ではYouTubeで”筑波大学准教授”兼”実業家”兼”メディアアーティスト”の落合陽一さんがおっしゃていました。落合陽一さんは日本は勉強することが善であるという文化があるがそれは間違いであることを語っていて、言われてみると確かに日本おかしいよなと僕も思いました。世の中は勉強できるから・できないからといって成功・失敗が決まっているわけではないし、勉強以外にもっと大事なことはあるしな...と。ただ、勉強することは自分をアップデートさせようとしていることだから、マストではないけれど、善ではあると僕は思っていました。

 

感じる力?...

この週末、「勉強が善だというのは間違い」が腑に落ちる話をある方にして頂きました。経営ゲームの懇親会ということもあり、周りが経営者さんばかりで、たまたま学生である僕が今から学ぶべきこと、そして現状の僕の弱い部分という話になりました。僕の強いところは”考える力”すなわち”理詰め”する力、一方、僕が弱い部分は”感じる力”だと指摘してくださいました。”理詰め”に関しては自身も武器だと思っていてました。世の中の流れがどうなっているか・世の中の構造がどういう仕組みか情報収集をし、そこから、自分の現状の能力・立ち位置を見て、僕が今何をすべきか、どういう行動を取っていく必要があるかまで落とし込むというのは周りの大学生と比べた時にできると僕自身が感じているからです。ただ、僕の弱い部分は「感じる力」だと聞いて、「そもそも感じる力って何?」「感じる力ってなんで必要なん?」と考えてしまいました(理詰め笑)。

 

理詰め・理論の限界

「感じる能力」の説明の前に、指摘してくれた方はまず「理詰め・理論だけでは限界がくる」ということを説明してくださいました。なんで、「理詰めだけでは限界がくるのか?」その答えはズバリ、「理詰め・理論は天才がやってきたことを万人ができるようにしたものである」からです。理詰め・理論を学ぶと自身を急速にアップデートすることはできるのですが、所詮、万人ができるようにしたものであって、理詰め・理論だけでは新しいことに自身で気がつき、新たなものや仕組みを作ることがなかなかできません。だから、理詰め・理論は限界であり、「勉強が善だというのは間違いだ」と言えます。やりたい人が、必要だと思った人が勉強するのが、理想ではありますが、あるべき勉強の在り方だと考えることができます。では、理詰め・理論では限界があるので何が必要か。ここで必要なのが「感じる能力」です。

 

感じる力とは

「感じる力」というと、なんか胡散臭い、怪しいようなニュアンスを感じるかもしれませんが、つまり、「直感」のことです。人をパッと見たときにその人の雰囲気を感じ取り、どんな心情だろう?、どんな性格なのかな?と僕は捉えています。そして、それが自然とできるようになると、人をパッと見ただけで、何に困っているのかとか、何をしてあげると喜んでくれるかとかがわかると思います。さらに、「感じる力」を磨くと、ものだったり、生活している中で当たり前の景色が当たり前ではなく見えるらしいです。例えば、生まれた時から広島に住んでいる人は路面電車が当たり前であり、景色になっていて、はたから見ると路面電車は価値があるのだが、特に路面電車に価値を感じません。(僕もあまり路面電車の価値がわかりません。)しかし、「感じる力」を磨いていると、いつも見ている景色を当たり前として見ず、その景色から価値を見いだすことができるそうです。

 

擬音語・擬態語

「感じる力」を人のパッと見て感じたことを擬音語・擬声語にすることが大事だよと言われました。(「おっとりしてるな」とか「ほんわかしてるな」とか「むすっとしてるな」とか)。実際に街を歩きながら、これをやってみると、自分が普段、他人をほとんど見ていないなと気がつきました。それにすぐに擬音語・擬声語に直すことがなかなかできない。ってことは人の気持ちを汲み取ることが僕は苦手なんだということに気がつきました。人と何かをする際、多分この感じる力、相手に気持ちを汲み取る力が一番大事だと思います。まずは人の気持ちを汲み取ることができるように、擬音語・擬声語で人の雰囲気を表す練習をしていきたいなと思います。それができるようになると、僕と一緒にいて楽しいと思ってくれる人、僕と仕事を一緒にしたいと思ってくれる人が現れて、仲間ができるかなと思います。そして、理詰め・理論にこだわり、勉強に集中しすぎて、周りの人をしっかり見ていなかったことに気がつきました。今まで僕が関わってきた人たちには申し訳ないです。

 

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平等と公平

 

前回のブログで学生時代の勉強機会の不平等について少し触れたので、今日は「平等」と「公平」についてを書きたいと思います。「平等」「公平」、どっちも堅い言葉で嫌気がさすし、「一緒じゃん!」と思うかもしれません。とはいえ、僕も自分で例を出して、正確に「平等」と「公平」の違いを述べる自信がないので、『日本再興戦略』著者:落合陽一さんの「平等」と「公平」の説明を引用させていただきます。

 「平等」とは、対象があってその下で、権利が一様ということ。何かの権利を1箇所に集めて、それを再分配することによって、全員が同じ権利がある状態を指す。

 「公平」はフェアであるということ。システムのエラーがないことや、ズルや不正や優遇をしないということ。

 例えば、日本人は、センター試験カンニングなどの不正が起きると怒るくせに、公教育に地域格差があったり、教育機会の差がある人が同じセンター試験を受けることに対しては無頓着。

と書かれています。

 他にも僕が不平等だと感じるのは、学校のPTA制度。中学校や高校であれば、保護者は3年間のうちに必ず1回は何かしらの役員にならなければならないというルールがよくあり、それは公平ではあるかもれませんが、平等とは言えません。なぜなら、世帯によって、共働きで忙しく保護者の自由な時間が少ない世帯、母子家庭・父子家庭で保護者の自由な時間が少ない世帯がある一方、専業主婦が家庭にいて保護者の自由な時間が多い世帯、3世代家族で元気な祖父・祖母が家事を担ってくれていて、保護者の自由な時間が多い世帯もあります。それにもかかわらず世帯のタイプに関わらず、PTAの役員に必ず1回はならなければいけないという制度は平等とは言い難いです。

 

学生時代の勉強機会

前回のでブログで

僕は母子家庭であり、家から大学に通っているのですが、奨学金に加えてバイトをしないと授業料が払えないです。大学に行けるだけで満足しろと言われるかもしれませんが、裕福な家庭にお金を出してもらっている家庭と比べると、勉強に当てることが可能な時間は、バイトをしなければいけない僕の方が圧倒的に少ないです。だからこそ、バイトをしないでお金を調達し、時間を確保し勉強に当てる方法を模索しています。

と書かせていただきましたが、この「学生時代の勉強機会」も不平等であると思っています。本気で勉強に打ち込もうと思った時、圧倒的に有利なのは裕福な家庭です。裕福な家庭は勉強するのに当てることのできる時間を多く確保できます。多くの人に対して平等に与えられている「時間」に格差があるのは、本気で勉強しようと思う人にとっては辛い限りです。

 

日本人は「公平」には敏感だが、「平等」には鈍感

今までの例の通り、日本人の特徴「公平」には敏感で、「平等」には無頓着ということがわかると思います。これに関しては一長一短なところもありますし、文化レベルで根付いていることなので批判しても仕方がないかもしれません。個人の権利を主張してきた西洋に比べ、日本は農耕文化で集団で生活をしてきた歴史がありますし、江戸時代には不平等である士農工商という制度もありました。しかし、学生時代の勉強機会の不平等(時間の不平等)には納得がいきません。だからこそ、この問題は個人的に早めに解決したい問題です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます