シューターのブログ

フレディ・マーキュリー

 

先日、現在公開されている映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観ました。この映画はイギリス・ロンドン生まれのバンド「クイーン」・そしてボーカル:フレディ・マーキュリーの話を題材にした映画です。「クイーン」が全盛期の頃、僕は当然ながらまだ生まれていませんでした。ですが、僕にも、「クイーン」の曲には思い出があります。受験勉強の頃は休憩に、Don't Stop Me Now や Another One Bites the Dust を聞いた記憶があります。一年前のセンター試験が懐かしいです。他にもWe Will Rock You は、CMなどいろんなところでかかっている曲なのですが、僕が曲と強く結びついている記憶は、野球中継の中でかかっていたことです。小学校の頃はヤンキースの野球中継を見るのが好きでよくテレビから観戦していました。確かその頃のヤンキースアレックス・ロドリゲスやカノー、ジーター、アブレイユが活躍していたような。それで、選手がバッターボックスに入るときかな?We Will Rock You が流れていました。このように、実際にクイーンが活躍していた時代を生きていない世代でも、知っている「クイーン」。そんな「クイーン」、フレディの生き様に、かっこいいけど悲しい、なんとも言えない生き様に感動しました。

 

不思議な歌詞

映画「ボヘミアンラプソディー」を見ていて、個人的に途中で気になる歌詞がありました。それはBohemian Rhapsody の歌詞の一部とI Was Born To Love You の歌詞の一部です。

まずはBohemian Rhapsodyの歌詞の一部

Mama, just killed a man
Put a gun against his head
Pulled my trigger, now he's dead
Mama, life had just begun
But now I've gone and thrown it all away
Mama, oh oh 
Didn't mean to make you cry
If I'm not back again this time tomorrow
Carry on, carry on, as if nothing really matters
Too late, my time has come
Sends shivers down my spine
Body's aching all the time
Goodbye everybody I've got to go
Gotta leave you all behind and face the truth
Mama, oh oh (anyway the wind blows)
I don't want to die
Sometimes wish I'd never been born at all
 
少し長いですが、訳してみると(正確ではないかも...)
ママ、たった今、人を殺してしまったよ。
銃を彼の頭に押し付け
引き金を引いたんだ。そして彼は死んだ。
ママ、人生は始まったばかり
なのに、今僕は全てを捨ててしまった。
ママ は〜...
ママを悲しませるつもりはないんだ。
もし僕が明日の今頃戻らなくても
何もなかったように、そのままでいて
もう遅い、時が来た。
背筋がゾッとする
体がずっと痛い
さよならみんな、僕は行くよ。
君たちから離れて、現実と向き合うんだ
ママ、は〜... (とにかく前に進む)
僕は死にたくない
時々僕なんて生まれてこなければよかったと思うことがある
 
聞いていてなんか意味深だなと感じました。
 
次に I Was Born To Love You の歌詞の一部
I was born to love you
With every single beat of my heart
Yes, I was born to take care of you, honey
Every single day of my life
 
I wanna love you
I love every little thing about you
I wanna love you, love you, love you
 
これも訳してみると
君を愛するために生まれてきた
僕の心臓の鼓動は全て君のせいだ
僕は君を幸せにするために生まれてきた
死ぬまでずっと
 
ここまではロマンチックな熱い歌詞だなと思うのですが、次が不思議です。
君を愛したい
あなたの全てを愛してる
君をを愛したいんだ
そう、急にwanna が出てくるんですよね、なんでWanna ?
愛してる文脈だったのに、急に愛したいみたいな歌詞が、
とても不可思議です。
 
生きやすい世の中って難しいみたい...
先日とある方が、ビジネスプランを発表していて、たまたま僕もその場にいました。その方は、性的にマイノリティーの方で、生きづらいということをおっしゃっていました。そして、そういった境遇の人のためのビジネスプランを披露していました。ビジネスって、世の中に対する不満や問題点を見つけ、それを解決するために起こすんだよなぁと感動しました。
ところで、僕がなぜこの話を取り上げたのかというと、
実はフレディ・マーキュリーも性的マイノリティーであったからです。I Was Born To Love You の歌詞が意味深だったのはおそらくそのため。(Bohemian Rhapsodyの方は曲を作った時期と考えるとちょっとわからないが、もしかしたら、そのためかも)
フレディの心の叫びが歌詞に表れていたのかも知れません。
マイノリティーであるために、狭義の”家族”を築けなかったフレディ、自身のことをパフォーマーだといい続けたフレディに一言
「かっこいい」
と言葉を送りたいです。
 
この映画、ぜひ見て欲しい
ボヘミアン・ラプソディ」を見て、フレディという人間の生き様を見て感動しました。そして、今まで全く考えたことのなかったマイノリティーの人たちのことを考えました。そのような人たちにとっては本当に生きずらい世の中なんだな、ということが少しではありますがわかりました。性的マイノリティーの他にも世の中にはマイノリティーで溢れていると思います。血液型から考え方、生き方まで、本当に様々。そんなマイノリティーの存在を受け入れられるような人でありたいです。
 
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ビジネスピッチ大会

 

昨日、広島大学産学・地域連携センターで行われたビジネスピッチ大会を見に行きました。まずはじめに、”ビジネスピッチ”とは何か、ざっくりというと、起業を目指す人が投資家に対して、プレゼンを行うことを指します。ビジネスピッチはもともと、シリコンバレーで生まれたそうで、起業を目指す若者が、話を忙しくて聞いてられていない投資家に対し、短時間でビジネスプランを説明しようという思いから出来たみたいです。そして、そのビジネスピッチ大会が昨日広島大学でありました。発表している方々は、広島大学の学部生・院生、社会人と様々でした。みじかなところに着目したアイディアから、スケールの大きいものまで様々で、正直ビビりました(笑)中には僕と同い年の人もビジネスピッチ大会で発表しており、とても刺激を受けました。

 

手堅い大学

僕は今、広島市立大学に通っているいるのですが、いい意味でも悪い意味でも、周りの生徒を見て「手堅い」印象があります。僕がとやかくいうことではないのですが、周りにはとりあえず公務員になりたいという人や、それなりのところに就職できれば良いかなという人が多いようにいます。(消滅可能性都市のことや、リスクを取りやすい時期が若いうちということを考えた上で将来を考えているのか、お節介ながら勝手に気にしています。)まあ、それはさておき、僕が不満を抱いていることは、広島市立大学アントレプレナーのためのプラットフォームがないということです。起業になんとなく興味があるという人は僕を含め少なからずいますし、そういうプラットフォームがあることにより、広島市立大学に通っている学生の視野・選択肢・考えを広げることができると思っています。対して、昨日訪れた広島大学は、昔あった1st peguinという、起業を目指す人のためのクラブが近々復活するとのことです。ピッチコンテストも開催しておられ、これからますます、アントレプレナーのためのプラットフォームが出来上がってきそうです。

 

不満は自身が解決する

こういった不満が僕にはあるのですが、不満だけをタラタラと言っても、大きく状況が好転することはほぼありません。そこで、僕が広島市立大学アントレプレナーのためのプラットフォームを用意したいと思います。そして、それは大学を盛り上げるチャンスだと思っています。例えば、大学の就職率を考えてみましょう。多くの大学はここの学部の就職率が99パーセントとか、100パーセントとかを宣伝文句にしています。しかし、文部科学省のデータによると、平成29年度の就職率は大学で98.0% 短大で99.1% 高専および専修学校は98.2% , 97.9% となっており、そもそも就職率で大学が競うのは馬鹿馬鹿しく、大学を判断する基準にも、大学自体の価値にもなりません。そこで、大学が輩出する価値ある人材、輩出すべき人材は、起業をしなくとも、起業家精神を持った人材、自ら価値を生み出そうとする人材だと僕は思っています。だから、僕は通っている大学で、アントレプレナーのためのプラットフォームづくりに向けて動いていこうと思います。

 

リーンスタートアップ

話は少し変わりますが、昨日たくさんのことを学んだ中で、一番の学びになったのは「リーンスタートアップ」です。これは起業を始める際に、まずはあまりコストをかけずに、最低限の製品・サービスで顧客の反応を確認し、反応が良ければ本格的な事業化に移るし、反応が悪ければ素早くたたむという方法です。この考え方はすごく重要で、何かを始めるにしても、ついつい「あれを準備してから、これも準備してから」となってしまいがちです。しかし、長いスパンで見ると、最低限を用意し、素早く実行し、トライアンドエラーを繰り返す方が、成功する確率は高く、成功するスピードも高いです。だからこの考え方は重要であり、僕が持っているビジネスプランも実行する際にこの方法で行おうと思います。さらに、これは起業だけの話ではなく、普段の生活でも言えることだと思います。何か始めようと思った時、完全に準備してからではなく、最低限を準備し、すぐにやってみるということがとても大切で、成功につながります。そういったわけで、昨日は「リーンスタートアップ」を意識して生活しようと考える事が出来た貴重な機会でした。

 

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蜜柑と檸檬

 

今回は”柑橘類”についてではなく、前回に続いて日本文学を題材にブログを書きたいとおもいます。さて、いきなりですが、最近読んだ中で印象に残ったのは、芥川龍之介の『蜜柑』と梶井基次郎の『檸檬』です。どちらのフルーツとも、食べたことはあったのですが、読んだことはありませんでした(笑)この作品、読んでいて、(僕に足りない)作者の感性が溢れている作品であると、感じました。

 

蜜柑

まずは芥川龍之介について、僕の説明なんぞ要らないと思われますが、一応書いておきます。芥川龍之介といえば、『蜘蛛の糸』や『羅生門』で有名であり多くの方がご存知でしょう。22歳の時に処女作として、『老年』を発表し、自殺する35歳まで後世にまで読み続けられている作品を数々と打ち出した、才能あふれる作家です。そして、『蜜柑』は芥川の作家人生の中期にあたる時期に発表されています。話の内容は、一人の男が汽車に乗っており、その向かいの席に一人の少女が乗り込んでくる。一人の男がその少女のことを不快に思いつつも、少女のことを観察しながら、少女の行動とともに一人の男の心情が変化していくという話です。(内容の説明雑すぎるな)『蜜柑』の特徴は色彩表現が豊かで、それが心情と対比していることです。その色彩表現の感性とやらいうものは僕がいうことべきことではありませんが、素晴らしいと思うばかりで、僕もその感性を磨きたいなと思います。

 

檸檬

檸檬』を書いた、梶井基次郎については僕は全くと言っていいほど知りませんでした。教科書で、『檸檬』という題名をちらっと目にした程度で、作品を読んだことは愚か、認識はただただ、”柑橘類” という程度でした。そして、『檸檬』の話の内容なのですが、正直言って、僕は読んで理解ができませんでした。というのも、終始作者の感覚によって表現された文章で、理屈の基づいて物語が展開されていることがなかったからです。案の定、評論家の井上良雄は「梶井氏は原始人のように感覚だけで世界と交渉する」と述べました。『檸檬』が評価されているのは事実であり、僕がこの作品を明確にすごいと思えるようになるには、もっと感性を磨かなければならないと思いました。

 

都市社会と自然

『蜜柑』と『檸檬』を読んでいて一つ僕の中で明確になったことは、この作品は特に、現代において取り残されたもの”感覚”が存在するということです。まず現代について考えてみましょう。現代というのは情報化社会であり、「意味」で満たされた社会です。オフィスは、印刷するためのコピー機があり、部屋を明るくするための電灯があり、情報を管理するためにパソコンがあり、仕事をするための場として机がある。車は、運転で操作するためにハンドルがあり、後ろを見るためにバックミラーとサイドミラーがあります。街を歩けば、事故が起こらないように歩道があり、信号機があり、視覚障害者のために点字ブロックがあります。つまり僕が何を言いたいかというと、都市社会は意味のあるもの(~のため)がほとんどで構成されています。対して、人間が本来住んでいた自然というのは、山には石ころが転がっていて、草が生えていて、木が生えています。でも、それらに向かって「”何の為に”そこに石ころは転がっているのか、草・木がそこに生えているのか」と聞いても、答えはありません。(なぜかは学問的に解明されているものが多いですが)つまり、自然というものは、意味のないもので多くが構成されています。そういった中で人間が、動物が、生物が頼りにしてきたのが”感覚”です。人間の祖先である猿は、感覚的に危ない気がするから木に登って避難していたでしょうし、ライオンは感覚的に捕まえられそうな獲物を選んで、狩をしていた(する)でしょう。そして、犬は人間の一万倍嗅覚があるというのも、感覚を頼りにしていた故であり、一つの証拠として表れています。そういった、自然にはあって、都市社会で失われたもの”感覚”が日本文学の『蜜柑』『檸檬』には存分に使われて物語が書かれているからこそ、これらの作品には価値があると思います。

 

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深イイ〜

 

 隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、江南慰に捕せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

 

この文章は、中島敦の『山月記』の冒頭部分です。というのも、僕は今週、日本文学にはまっています。高校の時は、あまり興味のなかった日本文学を、大学になってからかじってみようと思っていたのですが、結局手をつけず2018年を終えてしまいました。2019年に入って、日本文学を読み始めたのですが、「こんなにも面白いのか!」と夢中になっています。今日も6時間、日本文学の世界に入り込んでいました(笑)

 

日本文学の面白さに惹きこまれる

今週は、宮沢賢治の『注文の多い料理店』、中島敦の『山月記』『悟浄歎異』『名人伝』、夏目漱石の『夢十夜』『変な音』、芥川龍之介の『蜜柑』『猿蟹合戦』『教訓談』を読みました。一回読んだことのある話も多かったのですが、解説とともに読むと、文学って深いなということに気がつかされました。『注文の多い料理店』なんかは、小学校でも読んだ記憶があるのですが、その頃は、先生の話を聞いていなかったのか、興味がなかったのか、深いなとも面白いなとも思いませんでした。でも、注文の多い料理店』には、近代化や都市文明に対する反感が物語に表れているという見方ができたり、人間の騙される構造が文章中に表れているという見方ができたりして、とても面白いです。芥川龍之介の『猿蟹合戦』なんかは、作者の伝えたいことはあまり感激はしませんでしたが(笑)、形式がとても面白かったです。ご存知の通り民話の『さるかに合戦』は、ずる賢い猿が蟹を騙して殺し、殺された蟹の子供達が仕返しに臼や蜂と協力して猿を殺すというお話です。ですが、芥川龍之介の『猿蟹合戦』は蟹の子供達が仕返しをした後の話で、蟹の復讐の仕方は不当であり、法に触れる。そして蟹たちは罪に問われてしまうという話です。民話から話を広げて、新たな話を作るという形式は僕にとっては新鮮でした。

 

虎になってしまった李徴

今週読んだ中で一番心に残ったのは『山月記』です。高校の時に授業でやったことがあるからなのか、『こんな解釈があるのか!』『こんな意味が込められていたのか!』と興奮しました。(授業をまともにきいてなかっただけかも...) ちなみに『山月記』の内容をざっくりすぎるくらいに説明すると、李徴という秀才で科挙に合格した男が、官吏としての身分に納得がいかず、詩人として生きることを決意したものの花開かず、経済的に困窮し、下級官吏として働き直すのだが、そのある日に出張先で、発狂し虎になってしまう。それから翌年に、山で旧友の友の袁傪に会い、二人が会話をするという話です。そして僕がこの物語を読んでいる中で学びを得たセンテンスがあります。

 

「人生は何事を為さぬにはあまりに長いが、何事かを成すにはあまりに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の全てだったのだ。」

 

この文に僕は注目をしました。この文は虎になってしまった李徴が、自分が虎になってしまった思い当たる原因を自嘲的に話している一文です。まずはこの文の前半部分。物語の中で前半部分は重要ではないのですが、僕はここに共感しました(笑)。当たり前のことと言われれば、当たり前のことかもしれませんが、「何かを成し遂げようとする場合、人生は短すぎる時間である。」だから、僕が人生で本当に何かを成し遂げようと思うのであれば、もっと時間にシビアにストイックにやらなければいけないなとこの文を読んで戒められました。そして後半部分。ここは「プライドを持つあまり、守りに入り積極的に挑戦しないことは失敗につながる」その後「そういったプライドにより、学べることがたくさんあるにも関わらず、自分よりもレベルが低いと思う仲間には、恥ずかしくて入っていくことができなくなるとよくない」ということをこの文から学ぶことができます。プライドを持たず、謙虚な姿勢で努力することが必要だと自分を戒めることができました。

このように日本文学では、深い意味であったり、時代背景、作者の性格や想いなどを垣間見ることができます。そして大きな学びを日本文学から得ることができると僕個人は思っているので、ぜひ興味のある方は日本文学の世界へ一歩入ってみてください。僕は今年、一歩踏み出しました(笑)!

 

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わからなくて当たり前

 

懐かしメンバーとサッカー

年明けに小学校の時のサッカークラブのメンバーが集まってサッカーをしました。懐かしいコーチや同級生、高校生、中学生、小学生が混じってのサッカーで、だいぶ動きました。しかし、普段あまり運動をしていないせいか、今は筋肉痛で身体中が悲鳴をあげております(笑)そして、久しぶりのメンバーが集まり顔を合わせると、「だいぶみんな変わったなー(笑)」って感じで、なんか感慨深かったです。もうすぐ二十歳になるとか、小学校の頃は考えてもいませんでした。

 

荒野行動

サッカーのお昼休みにある小学生が僕に話しかけてきてくれました。確か小学3年生って言ってたかな?その子は僕にひたすら『荒野行動』というゲームの話をしてきました。でも僕、「荒野行動」というゲームやったことがないですし、そもそもゲームは自分の中では中学校で卒業していて、普段は基本ゲームをやらないんです...。小学校・中学校と友達とモンハンをやりまくって、あれで一生分のゲームをやったと自身は思っています(笑)。で、「荒野行動」の話はというと、「フェラーリを奪って、乗り回して、敵を倒した」みたいな話で、それを輝いた目で僕を見つめながら、生き生きとな話すんです(苦笑)。あまり自分から小さい子に話をかけるのは苦手な方なので、いつも「うん」「確かに」「なるほど」「そーか」と言いながら相槌を打つことしかできなく、案の定、今回もそんな感じで相槌を打ちに打っていました。そして話を聞きながら、「みんな興味を持っていることは違うし、人は分かり合えないもんだな」と当たり前のことが思い浮かびました(笑)

 

興味の持っていること、前提はみんな違う

小学生の「荒野行動」の話、小学生は生き生きと話していて楽しそうだったのですが、僕は全くもって興味がなく、テンションや感動を共有すること、共感することができませんでした。(自分で言うのもあれだけど、俺ひどい奴だな ...) でも、このようなことを僕は、普段たくさんしているなと話を聞きながら感じました(゚ω゚) というのも、僕が興味を持っていることって、おそらく大部分の人が興味を持っていないことなんです(笑)。例えば、この数日で興味があることは、「中国の外交戦略」「都市社会と自然」「児童書」などなど。そして、そのようなことをついつい、友達や家族に話してしまうんです。相手は絶対に興味ないだろって内容なのに。「中国の対外強硬路線は、大国が小国には勝てないという逆説の論理に陥っているんだよね〜」とか、「都市社会は、意味のあることを追求してできた意識の世界であるのに対し、自然は意味のないものがたくさんある感覚の世界なんだ。だから、人間は日常で感覚を知らず知らずのうちに鈍らせているんだよね〜」とか「子供の頃に読み聞かせをしてもらったであろう『はらぺこあおむし』実は超深いんだよ〜」とか。急に話されても「はっ?」てなりますよね(笑)(この辺りの話は僕の自己満足で、気が向いたときにブログにします!)

 

他人のことなどわからないもの

先日、フラ〜っと本屋さんに入り、養老孟司さんの本が目に入りました。「『〇〇の壁』って題名、養老さん好きだなぁ」とか思いながら本を手に取ったのが最後、立ち読みで完読してしまいました。その本は『「他人」の壁』(養老孟司/名越康文 著)です。この本に興味深いことが書いてありました。それは「他人のことなどわからないもの」ということです。わからないのは前提が違うから当たり前。興味を持っていることも、経験や環境が人それぞれ違うのにわかりあえるわけがないとのことです。「何十年も一緒にいる奥さんのこともやっぱわかんない」と養老孟司さんはおっしゃっていました(笑)。でも確かに養老さんの言っていることは納得できるし、自分のことに置き換えて考えてみると、「十数年一緒にいる親が何考えているか」、「仲のいい友達が何考えているか」、わかっている気がしてるだけで全然わかっていません。(僕の場合、他人に対する興味が薄いってのがそもそも問題かも...) でもそれって当たり前なんです。だって前提が違うから。

 

「分かり合えない」を前提で分かろうとする

『「他人」の壁』の中で、「「わかりたい」「わかってあげたい」、あるいは「わからないといけない」と考える傾向って、年齢層でいうと、高齢者より若い人の方が強いかもしれない」というようなことが書いてありました。そして「20年くらい前から、日本の大学に心理関係の学科がたくさんできたのを見てわかる。同時に至る所でカウンセラーも出現した。」と書いてありました。つまり、「人に自分をわかってもらいたい、絵わかってもらえれば幸せになると考えた人が増えた」ということが言えます。(もちろん、心理学は有用な学問だと思いますし、カウンセラーも世の中に必要な職業だと思いますよ)でも、結局人は完全には、分かり合えないし、それが当然です。でも、それを「自分のことはわかってもらうことができる」、そして「相手のことをわかることができる」と思って、分かろうとすると「わかってもらえないこと」「わからないこと」に悩んだり、相手と衝突したりすると思います。だから、「分かり合えない」というのを前提に分かろうとすると、気持ち的に楽だし、「わかってもらえた時」「わかった時」に嬉しいし、無駄な衝突も起こらない。だから、「分かり合えない」を前提に分かろうとすることがとても大事だと思います。

 

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2019年の目標

 

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願います!2018年もあっという間で、2018年は色々とあったなと新年を迎えてから振り返っています。2018年は自分の中では結構激動の年でした。2月に初海外でカンボジアに行き、物乞いをする人やシェムリアップパブストリートの盛り上がりに驚きました。学校の建設を手伝わせてもらった際に出会った子供達の笑顔はとても印象に残っています。3月は高校を卒業し、とりあえず車校に通い、バイトを始め、その頃読書にも目覚めました。4月に大学に入学し、新しい友達ができ、やりたい勉強をやりたい放題に取り組み始め、5月、6月はとにかく社会を知りたいという漠然な思い出、いろんな職業の人とあって話すために、市内で開催せれているイベントなどにたくさん参加しました。夏休みは、色々と人と会って話す中で、もっと勉強しないとダメだなと思い、本を読みまくり、映画を見まくり、美術展に足をたくさん運ぶという生活をしました。また、マネジメントゲームをやって経営者の方と会う機会がぐっと増えたのもこの頃からでした。経営者の方とお話しすると、格段に自分の世界が広がったのですが、同時に自分が知らないことは山ほどあるし、自分が無力だなということも感じ、より一層自身を磨かなければと感じました。10月からは広島市立大学塾が始まり、いろんな立場の方のお話を聞き、ディスカションもしました。同世代の人や塾長、副塾長とのディスカッションはとても勉強になりました。また、教育関係にも関わり始め、様々な教師や若手起業家、外交官とお話をする機会をいただきました。11月には東京で座談会に参加させてもらい、雑誌に載せてもらったのは初めての経験でした。12月はサンタになって、広島のご家庭を回るというとなかなかない体験もしました。こう振り返ってみると、今までの19年間で一番充実した年だなと思います。

 

人・本・旅

 2018年は人・本・旅でたくさんのことを学びました。この「人・本・旅」は人が成長する上で大きな手段だということを出口治明ライフネット生命創業者、立命館アジア太平洋大学(APU)学長)さんがおしゃっていました。そして、本は一番効率よく学ぶことができる。ただ、人には向き不向きがあって、人から話を直接聞いて学ぶことが得意な人、旅が好きでそこからたくさんのことを学ぶのが得意な人もいる。だから、「人・本・旅」どの方法でもいいので、どれか一つの取り組むと学びを得ることができる訳で、僕も「人・本・旅」を意識して2018年の1年間を過ごしてきました。そして、一番大きな学びを得ることができた手段は「人」かなと思っています。

 

僕が2018年に人と会って一番大きな収穫だったのが、自分がどういう人だったり、どういう考え方の癖があるかがわかったということです。たくさんの人と会っていると、もちろん自分とは全く違う訳で、趣味も違えば、考え方もノリも違うし、興味を持っているものも違う。そんな当たり前のことに気がつかされたのと同時に、立場の違うたくさんの人と会ったことで、頭の中で自分と比較対象するサンプルがたくさんでき、僕の強み、弱みというのを今までよりは自覚することができました。そして、「理詰めや理論(勉強)だけではダメ」ということに気がつけたのが一番大きかったです。もちろん、理詰め・理論を学ぶことによる便益は計り知れないほど大きく、学ぶことは大いに価値のあることではあるのですが、「理詰め・理論は天才がやったことを万人ができるようにしたこと」だから、大きく世の中を変えようと思ったら、それだけでは駄目というのを聞いて、ガラッと僕の考え方が変わりました。これからは「feel」の部分を磨いていきたいと思います。

 

人・本・旅それぞれの目標

今年の目標をどうやって立てようか悩んでいたのですが、「人・本・旅」で目標をそれぞれ立ててみることにしました。早速今年の目標は・・・

人:一日一回人の喜ぶことをする

本:年間180冊を読む

旅:2020年の世界一周に向けて資金を貯める

の3つです。

まず「人」については、一日一善というやつで、人の雰囲気とか気持ちを察して、行動を起こして、人に喜んでもらえることができれば、人ととして成長できるかなとという思い出この目標を立てました。

次に「本」については、2018年は120冊(3日に1冊)ほど読んだので、次は2日に1冊ペースで本を読み、学習のスピードを上げたいと思ったので、目標を年間180冊にしました。

最後に「旅」については、2020年に世界一周するクルーズを予約しているので巣がその資金が今ないので、資金を貯めるということを目標にしました。また、短期間ではありますが、今年は沖縄で研修があるので、そこでまた新たな視点を見つけたいなと思っています。昨年のカンボジアへ行くというような大きな行動は今年はできそうにありませんが、新しい視点を見つけるという意味で「旅」にこだわってこの1年間を過ごしていきたいと思います。

 

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迷惑をかけ合ってこそ対等な付き合い

 

 先日、「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」という映画を観に行きました。主演は大泉洋、共演三浦春馬高畑充希などです。主演はこの映画は元となっている本『こんな夜更けにバナナかよ』を今年の春に見ており、公開前から僕が待ちに待っていた映画でした。『こんな夜更けにバナナかよ』は僕が通っている大学の学長であり、僕が所属している広島市立大学塾が推薦していた本ということで自身、手にとって読みました。

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筋ジストロフィー

この本(実話)の主人公は鹿野靖明さんです。彼は筋ジストロフィーという筋肉が年をとるとともに弱っていく病気で、20歳までしか生きられないだろう医者に言われていました。そして、筋ジストロフィーは自立生活をすることは不可能で入院生活をするしかないと言われていたのだが、鹿野さんは自立生活をすることを決心し、24時間ボランティアを途切らさせずに何年も必死に生きていきました。筋ジスにより一人で出かけられないことは勿論、鹿野さんは一人で寝ることもできない、ご飯も食べられない、トイレにも行けない、風呂にも入れない、だからボランティアに全てをお願いする。本の中のそういう彼から僕は、「人に頼ること」の大切さを学びました。

 

迷惑をかける

映画の方『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』では、本に書かれていたことの一部(彼の生活)を切り取った感じ、特に学生ボランティアと鹿野さんのやりとりが描かれていました。そして、映画を観ていて伝わってきたことは、「迷惑をかけることが人間関係の上で大切で、対等になれる」ということです。鹿野は何もできないがゆえに、あれしてくれ、これしてくれて周りの都合も考えずに要求し超自己中です(笑)。でも、これは決して鹿野が得しているだけではなく、周りのボランティアにたくさんの学びや影響を与えています。そして、「障害者が普通に家で暮らすことの権利はあるだろう」ということや、「人はできないことの方が圧倒的に多いから、迷惑をかけることは人生の上でとっても大切なんだよ」ということが映画を見ていると伝わってきました。

 

もっと人に寛容になる、迷惑をかける勇気

この「こんな夜更けにバナナかよ」の本・映画を見て、自分自身もっと人に寛容になることと、迷惑をかける勇気を持たなければなと思いました。この二つを身につけると、いい人間関係やいい組織を作ること、もっと楽しい人生を送ることができるなと思いました。まずはこの映画をとにかくたくさんの人に見てもらいたいです。僕自身映画を見てウルウルすることはあったのですが、泣いたことはありませんでした。ですが、この映画、感動しすぎて号泣でした(笑)。知り合いに遭遇したら、映画館に即直行させます!というくらいに本当に見てもらいたいです。人生で大切なことがあの実話には詰まっています。そして僕が感じたこと以外にももっと感じることがあると思います。ぜひ映画館に足を運んで観てみてください。できれば本も読んでもらいたいくらいです!文庫本にもなってました!!

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最後まで読んでいただきありがとうございます